牧港捕虜収容所

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牧港捕虜収容所
浦添市城間
捕虜収容所行きのトラックにのりこむ日本軍将校(米海兵隊撮影 1945年9月3日)
種類牧港捕虜収容所のあった米軍「牧港飛行場」
施設情報
管理者沖縄の米軍基地
歴史
使用期間1945-1947

牧港捕虜収容所 (まきみなとほりょしゅうようしょ)は、沖縄戦終結後の1945年10月頃にアメリカ軍(米軍)によって開設された元日本兵を収容した捕虜収容所。現在の沖縄県浦添市城間の牧港飛行場(現在の牧港補給地区)にあった。

概要[編集]

1945年12月10日に米軍が撮影した米軍基地「牧港飛行場」(現在の牧港補給地区) の空中写真。

米軍は沖縄戦で捕虜となった兵士、軍夫、防衛隊員、学徒兵らを捕虜収容所に収容した。捕虜収容所の本部は屋嘉捕虜収容所におかれたが、増え続ける捕虜の数に対応するため、また中南部に集中する基地建設や兵站基地の現場により近い捕虜収容所が必要とされたため、さらに7箇所で捕虜収容所が設置された。

多くの民間人収容所が沖縄島北西部に集約される一方で、捕虜収容所は米軍の軍事施設が集中化する中南部の主要な基地に付随して設置されていることが特徴である。

米軍の軍政報告書は、沖縄戦で男性労働力の喪失は沖縄の全人口のわずか9%に落ち込み、また住民も収容所に収容されているため、当面は約1万2000人の日本軍捕虜を労働力として使用する必要があったとしている[1]。捕虜は主に軍港や飛行場の兵站業務や、急ピッチで進められる基地建設に関連する労働に使役された。

沖縄の捕虜収容所 収容者数

1946年5月時点[2]

本部 屋嘉捕虜収容所 金武町屋嘉 287
1 牧港捕虜収容所 浦添市 3,531
2 楚辺捕虜収容所 読谷村高志保 2,075
3 奥武山捕虜収容所 那覇市 1,560
4 小禄捕虜収容所 那覇市 1,459
6 普天間捕虜収容所 宜野湾市 718
7 嘉手納捕虜収容所 北谷町 2,874
入院(第9病院)等 187

米軍の牧港飛行場は1945年6月1日から建設が開始され、7週間後には完成する。牧港捕虜収容所は1945年10月末頃に設置され、1946年5月には牧港捕虜収容所の捕虜の収容数は3,531人と、最大の捕虜を収容した[3]

国立電気通信大学を卒業後、航空局の職員として海軍小禄飛行場に派遣され、その後米軍の捕虜となった上根保によると、10月に約500人の捕虜が屋嘉収容所から牧港収容所に移され、150m四方に有刺鉄線をはりめぐらせた囲みのなかにテントがたてられ、一つの幕屋に20名くらいが生活する状態であったという[4]

労役[編集]

牧港でのはじめの数カ月の使役は、毎日毎日、トラックや大型トレーラーへの積み込み、積み卸し、廃棄作業である。生活用品をはじめ、食糧、壊れた機械類、車、飛行機の部品などの積み込みである。さらに、大きなトレーラーに肉、野菜、菓子、戦線での弁当「レーション」 などを積む。この積み込み作業があまりに不思議なので監視の兵士に聞いてみた。戦争が予想 より早く終わったので物資があまってしまったのだと言う。つまり帳尻合わせのための廃棄処分なのだ。われわれには理解しにくい、贅沢な無駄の極みである。「もったいない」という概 念はないのか......。 廃棄場所は読谷の渓谷である。谷底を見ると小型飛行機、機械、トラック、肉、野菜、菓子類など、ありとあらゆるものが捨ててある。廃業のトレーラーが入れ代わり立ち代わりやってきては物資を捨てる。農民、市民がそれを拾うために習集する。谷底まで降りていって肉、野 菜、缶詰やチョコレートなど、食糧を担いで登ってくる。いちばんの人気は、やはり肉の塊で あった。作業する捕虜は腹が減っているので車のそばに落ちている食糧を拾おうとすると、監視兵に強く怒鳴られ引き戻された。 「捕虜はジュネーブ条約で決められているカロリーの食事は与えられているはずだ。食中毒などの病気にでもなられたら監督責任を問われるから駄目だ」と言う。 — 上根保『生還 激戦地・沖縄の生き証人60年の記録』130頁
嘉手納近くの捕虜収容所 (おそらく嘉手納捕虜収容所) でスープの配給を受ける日本人捕虜

キャンプ・マッコイなどアメリカ本土にあった他の捕虜収容所と同じく、ジュネーブ条約にしたがって食事のカロリーなど一定の基準が守られることになっていた。国際赤十字による捕虜の処遇調査もあり、牧港捕虜収容所で2016年の11月から3か月間、食事が悪化した際には、国際赤十字の査察で「収容所長の首が飛んだ」という。[5]

また、他の捕虜収容所と同様に、牧港収容所でも、自殺あるいは他殺とおもわれる首吊り事件が起こっている。憲兵によって容疑者と思われる収容者が炎天下のなかドラム缶の上に直立不動で立たされるといった定番の処罰がおこなわれた[6]

復員[編集]

沖縄戦の作戦参謀八原博通らをはじめとした将校クラスは、収容所内での労働も免除されており、第一弾は1945年12月31日に復員している一方、兵士の復員は、1946年7月に予定されていたものがさらに延期され、1946年10月3日から第一弾の復員が開始された[3]

捕虜収容所の「沖縄新聞」第23号(1946年10月4日)の記事[7]によると、第1回目の復員は那覇軍港からと牧港から、二隻の LST で出港したことが記録されている[3]

復員遂に始まる LST二隻に分乗 第一回帰国者出航す 船内に友軍被服を準備

遂に来た復員開始の日10月3日 この日を待っていた帰国者1798名は嘉手納・牧港・ライカム (註・ライカム収容所とは普天間収容所のこと) 及び小禄の集結場所から折柄作業にでて行く戦友達に千切れる程手を振りつつトラックを連ねて那覇港に向ふ 那覇港には港湾倉庫が小野山 (ママ) (註 奥武山捕虜収容所) 収容所の真正面の岸壁にLST(上陸用舟艇)が一隻大きな扉を観音開きに開いてピッタリと上陸板をおろしている そして牧港寄りの岸壁にもう一隻 牧港寄りの一隻には嘉手納から来た800名が 他の一隻には残りの1000名が見る間に吸い込まれて行く 船内はただ広い船倉にゴザを敷いて悠々と寝そべることが出来る

帰国者内訳 第一次復員船で帰国する各収容所の人員は次の通りである

ベース・キャムプ (註・屋嘉捕虜収容所) 3名、病院3名、ライカム330名、楚辺266名、嘉手納559名、牧港403名、小野山(ママ)83名、小禄151名、合計1798名 — 「沖縄新聞」第23号 (1946年10月4日)

1947年2月までには沖縄島の捕虜収容所からの復員はすべて完了した[3]

脚注[編集]

  1. ^ 鳥山淳「軍用地と軍作業から見る戦後初期の沖縄社会 : 1940年代の後半の「基地問題」」浦添市立図書館 (2001) p. 71.
  2. ^ 読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所”. yomitan-sonsi.jp. 2022年3月19日閲覧。
  3. ^ a b c d 豊田純志「米軍上陸後の収容所」読谷村「読谷村史」 
  4. ^ 『生還 激戦地・沖縄の生き証人60年の記録』上根保、幻冬舎ルネッサンス、2008年、129頁。ISBN 978-4-7790-0369-1OCLC 675689553 
  5. ^ 上根保 (2008), p. 137.
  6. ^ 上根保 (2008), pp. 144-145.
  7. ^ 1946年5月4日から被収容者によって「沖縄新聞」が発行され、各収容所に配られていた。

関連項目[編集]