牛仙客

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牛仙客(ぎゅう・せんかく、神龍元年(675年)- 天宝元年7月29日742年9月2日))は唐代玄宗朝の軍人・政治家。県の胥吏から節度使になり、玄宗と李林甫の引き立てにより、中央に入って宰相にまで出世した。

生涯[編集]

涇州の鶉觚出身で元は県の小吏であった。県令の傅文静から重んじられ、傅文静の隴右營田使への昇進後に引き立てられる。軍功で洮州の司馬にまで昇進した。開元初期に河西節度使王君㚟の判官となり重用された。王君㚟の死後は、後任の蕭嵩に軍政を委ねられた。

牛仙客は勤勉・清廉であり、上司も部下をよく扱い、誠意をもって接した。蕭嵩の推薦で太僕少卿、判涼州別駕事となり、蕭嵩の中央帰還時の留守を預けられた。蕭嵩の後任として、河西節度使、判涼州事となり、開元20年(732年)に六階を加えられ、太僕卿、殿中監を歴任した。多くの所用を節減し、倉庫に物資が積み重なったと伝えられる。

開元24年(736年)には朔方行軍大総管となり、知河西節度事となる。河西の倉庫が充満し、兵器が立派であることが中央に知れた。これを聞き、喜んだ玄宗によって、尚書に任じられる。張九齢は反対したが、張九齢の方が宰相を解任されることとなった。李林甫の推薦を受け、牛仙客は中央に入って工部尚書となり、宰相に列することとなった。

監察御史の周子諒と刑部尚書の李適之が、牛仙客に宰相の才は無いと上奏した。周子諒は玄宗に宮廷で責められた上で、配流になり、その途上で死ぬ。

牛仙客は、宰相としては保身を行い、李林甫に従うだけであった。決裁を求められても、「ただ、律令格式によればいい」と答え、自分で決めることはなかった。時人の議論が彼に肯定的でなかったため、高力士が玄宗に「牛仙客は胥吏出身で、宰相の器ではない」と進言した。玄宗は同意しなかったと伝えられる。開元25年(737年)、侍中兼兵部尚書となる。天宝元年(742年)、左相となるが、その年に68歳で死去する。『貞簡』と贈り名された。

伝記資料[編集]