片桐貞昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
片桐 貞昌
Katagiri Sadamasa.jpg
片桐貞昌像
時代 江戸時代前期
生誕 慶長10年(1605年
死没 延宝元年11月20日1673年12月27日
改名 鶴千代(幼名)、貞俊(初名)→貞昌
別名 石州(通称)、宗関、能改庵、浮瓢軒(号)
官位 従五位下、石見
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱
大和小泉藩
氏族 片桐氏
父母 父:片桐貞隆、母:今井宗薫の娘
兄弟 貞昌貞晴
正室大久保忠常の娘
下條信隆信明貞房松田貞尚(四男)

片桐 貞昌(かたぎり さだまさ)は、江戸時代前期の大名茶人大和小泉藩の第2代藩主茶道石州流の祖として片桐石州(かたぎり せきしゅう)の名で知られる。

生涯[編集]

慶長10年(1605年)、初代藩主・片桐貞隆の長男として摂津茨木で生まれる。賤ヶ岳の七本槍の一人である片桐且元の甥にあたる。寛永元年(1624年)12月28日に従五位下、石見守に叙任される。寛永4年(1627年)、父の死去により家督を継いだ。このとき、弟の貞晴に3,000石を分与したため、小泉藩は1万3,000石となった。

貞昌は寛永9年(1632年)から寛永20年(1643年)まで知恩院再建の普請奉行を務め、そのほかにも関東の郡奉行などを歴任し、また水害地の視察にしばしば出張するなど土木建築に功績を挙げた。寛永15年(1638年)には大徳寺山内に高林庵を建立している。

延宝元年(1673年)11月20日に死去した。享年69。跡を三男の貞房が継いだ。墓所は京都府京都市北区紫野の大徳寺高林庵。

茶人としての石州[編集]

最初、千利休の長男・千道安の流れを汲む桑山宗仙に茶道を学んだといわれている。30歳の頃からは大和郡山藩主・松平忠明近江小室藩主・小堀政一(遠州)らともよく茶席を共にしているほか、奈良の茶人とも交遊を深め、茶の宗匠として次第にその名が広がっていった。特に第4代将軍・徳川家綱のために『茶道軌範』を作り、なおかつ寛文5年(1665年)には家綱の茶道指南役となり、石州流を不動のものとした。

寛文3年(1663年)、父の菩提のために慈光院を創立した。これは寺としてよりも境内全体が一つの茶席として造られており、表の門や建物までの道・座敷や庭園、そして露地を通って小間の席という、茶の湯で人を招く場合に必要な場所ひと揃え全部が、一人の演出そのまま300年を越えて眼にすることができるということで、現在も全国的に見ても貴重な場所となっている。慈光院の庭園は1934年に国の史跡及び名勝に指定され、1944年には書院と茶室が国宝保存法により当時の国宝に指定された(1950年文化財保護法により重要文化財となる)。

ちなみに徳川光圀保科正之松浦鎮信らは、茶道における貞昌の門弟である。