片山敬済

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片山敬済
国籍 韓国の旗 韓国
レースでの経歴
ロードレース世界選手権
活動期間 1974年 - 1985年
初レース 1974年ベルギーGP 250ccクラス
最終レース 1985年ベルギーGP 500ccクラス
初勝利 1974年スウェーデンGP 250ccクラス
最終勝利 1982年スウェーデンGP 500ccクラス
チーム ヤマハ, ホンダ
チャンピオン 350cc - 1977年
出走回数 勝利数 表彰台 PP FL 総ポイント
83 11 35 5 6

片山 敬済(かたやま たかずみ、1951年4月16日 - )は、兵庫県生まれのモーターサイクルロードレースライダー。1977年に日本出身者として初めてのロードレース世界選手権(WGP)チャンピオン獲得。WGP参戦当時の愛称は「プリンス」。または名前から「zooming cuts(ズーミングカッツ)」。韓国国籍。

戦歴[編集]

WGPデビュー以前[編集]

16歳でバイクの免許を取得、ホンダCB450で走り始める。18歳の頃にF1ドライバーを目指し、四輪車でジムカーナを始めるが、先輩から「4輪をやるなら2輪から入れ」との助言を受け、20歳のときにバイクレースを始める[1]兵庫県六甲山の街道レーサーから1971年、神戸木の実レーシングからロードレースデビュー。当時のクラス分けのノービス、ジュニア、エキスパートジュニア、を全て一年でクリアし、1974年には当時国内最高のセニアクラスに昇格する。

WGP 1974年シーズン[編集]

1974年、片山は契約していたヤマハから強引に許可を得てWGPに参戦した。これに対してヤマハは全面的な支援はせず、TZ250を貸与するのみで、メカニックもおらず、片山自身がマシンの整備・チューニングを行った。初めてのヨーロッパを一人で転戦するのは大変だったが、ヨーロッパのヤマハ現地法人であるヤマハNVの契約ライダーのケント・アンダーソン(125ccクラス世界チャンピオン)が面倒見の良い人だったので、片山は彼の助けを借りてヨーロッパを転戦した。片山はWGP第6戦のダッチTT(オランダGP)から250ccクラスで参戦。予選で3位になり、決勝レースでも3位を走っていたのだが、リアブレーキのトルクロッドが折れるというトラブルに見舞われてリタイアとなる。参戦開始から3レース目の第8戦スウェーデンGP(アンダーストープ)で早くも独走でGP初優勝を飾る。スペインGPでは不運に見舞われた。トップで走り、このまま行けばランキング2位は確実と思われた状況だったのだが、ブラインドコーナーの立ち上がり地点で、クラッシュしたマシンの消火活動のためにコースを横切っていた消防士と片山が激突してしまったのだ。片山は転倒し、そのままリタイア。消防士は即死という不幸な結果となった。この年はシーズン後半の6戦しか出場しなかったにもかかわらず、ランキング4位を獲得。決勝レースの半分以上は、いったんはトップを走るという活躍を見せた。また、当時、片山はトレードマークとして、テントウムシのイラストをリアカウルに描いてレースに出場していた[2]

参戦当初は好んで座禅をしたり、日の丸の鉢巻を装着してレースに挑むなど、その奇行と突然変異的な速さから「オリエンタルミステリー」と揶揄されることもあった。 片山は集中力を得る方法として座禅を行っていた[3]

当時のWGPでは、現在のWGPから見ると、各ライダーはかなり強引な走り方をしていた。コーナーでイン側に入ると、アウト側のライダーをどんどん外側に押し出すようなことが当たり前のように行われていた。アウト側のライダーはそのままではコースアウトしてしまうので、仕方なくスロットルを戻し、イン側のライダーの後方に下がることになる。金谷秀夫ヤーノ・サーリネンカウリングをぶつけ合いながら走り、そこにフィル・リードも加わり、三つ巴の戦いになるという状況がごく普通であった。相手がスロットルを戻すまで完全に抑えるという意気込みで各GPライダーは走っていた。根本健河崎裕之もそのような走り方をしていた。片山は富士スピードウェイで飛ばされたことがある[4]

1974年ケニー・ロバーツもWGPに初参戦したシーズンである。片山と同じ250ccクラスに出場した。このシーズンはイタリアのアエルマッキのエンジンを搭載したハーレーダビッドソンのワークス・マシンが速く、ウォルター・ビラが世界チャンピオンとなった。のちのWGP500ccクラスチャンピオンのフランコ・ウンチーニもアエルマッキのハーレーダビッドソンに乗っていた時期もあった[5]

次の表は片山の1974年250ccクラスの成績である(インターナショナルレースも含む)[6]

Rd. グランプリ サーキット 結果
6 オランダの旗 ダッチTT TTサーキット・アッセン リタイア
7 ベルギーの旗 ベルギー スパ・フランコルシャン 3位
インターナショナルレース 優勝
8 スウェーデンの旗 スウェーデン アンダーストープ 優勝
インターナショナルレース 優勝
9 フィンランドの旗 フィンランド イマトラ 5位
10 チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア ブルノ 2位
11 ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビアグランプリ オパティア リタイア
12 スペインの旗 スペイン モンジュイック リタイア

1975年シーズン[編集]

1975年は大半を国内レースで過ごす。この年、シーズン途中に米国モーターサイクリスト協会AMA)のオンタリオ200マイルレースに参戦。総合でケニー・ロバーツに次いで2位となる。結果は、250ccクラスで2位、750ccクラスで4位であった[7]。 当初、片山はAMAのライセンスを取得して、ダートトラックレースやロードレースの全米選手権などに参戦するつもりであったが、AMAのライセンスが取得できなかった。オンタリオのレースはインターナショナルレースだったので、日本のライセンスでもエントリーすることができた。また、片山はアメリカの雰囲気が自分には合わないと感じていた。片山にとって、アメリカの雰囲気はドライ過ぎ、日本の雰囲気はウェット過ぎ、半々ぐらいのヨーロッパの雰囲気が自分に合っていると感じた[8]

WGP 1976年シーズン[編集]

1975年のシーズンオフに石油ショックのあおりを受けてレース部門縮小を行ったヤマハから契約解除を申し渡される。この時点で片山はレースから足を洗うことも考えたというが、その直後に同じGPライダーのチャス・モーティマーからの誘いを受けて再びWGPに、今度はプライベーターとして参戦することを決意する。

このシーズンは、日本のガスライター会社であるサロメがスポンサーとなった。サロメは既にヨーロッパにおいて自転車レースのスポンサーになっていた。片山は、1975年はヤマハの契約ライダーだったので年収は800万円を超えていたが、1976年はそのような収入はなく、サロメがスポンサーについてはいたがヨーロッパでの生活は苦しく、レース用のマシンも片山自身で購入しなければならなかった。インターナショナルレースで賞金を得ながら、このシーズンから国際モーターサイクリズム連盟(FIM)のもとで開催されるようになったフォーミュラ750(F750)とWGP250ccクラス、350ccクラスに参戦。また、マン島TTレースでは500ccクラスとプロダクション250ccクラス(RD250)に参戦し、このシーズンは約75戦のレースを走った。レースで良い結果を出していたので、スターティングマネーはトップクラスの金額になったのだが、1シーズンのレース活動にはそれでも十分ではなかった。日本から呼び寄せた二人のメカニックも生活の酷さに耐えきれず、2 - 3ヶ月で日本に帰ってしまった。結局、知らない人間も含めて8人ぐらいのヘルパーの助けを借りてレースを走ることになる。このシーズンは最終戦のスペインGP以外は全レース走り、ランキングは250ccクラス2位、350ccクラス7位、500ccクラス20位、F750クラス11位であった[9][10]

Rd. グランプリ サーキット 250ccクラスの結果 350ccクラスの結果
1 フランスの旗 フランス ル・マン 予選落ち(シリンダー焼き付き 4位
2 オーストリアの旗 オーストリア ザルツブルクリンク レース無し リタイア(チェンジペダル折損)
3 イタリアの旗 イタリア ムジェロ 2位 10位(リアサス2本の旧型TZ350で走る)
4 ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビア オパティア リタイア(ブレーキトラブル) 3位(マシン不調)
5 イギリスの旗 マン島TT マン島 2位 9位
6 オランダの旗 ダッチTT アッセン 2位 リタイア(チャンバー破損)
7 ベルギーの旗 ベルギー スパ・フランコルシャン
公道サーキット(14.175km)
11周 155.100km
3位(46'49"2)
レース無し
8 スウェーデンの旗 スウェーデン アンダーストープ
(4.018km)
28周 112.50km
優勝(独走)
(50'30"009、平均 133.6km/h)
レース無し
9 フィンランドの旗 フィンランド イマトラ
イマトラ市公道サーキット(6.03km)
19周 114.57km
2位(47'19"3、平均 145.3km/h)
20周 120.60km
予選落ち(転倒)
10 チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア ブルノ
ブルノ市公道サーキット(13.9375km)
13周 141.960km
3位(51'36"34)
14周 152.880km
11位
11 西ドイツの旗 西ドイツ ニュルブルクリンク
公道サーキット(22.81km)
6周 137.01km
7位(ヘアピンで転倒)
7周 159.85km
4位(104'25"5、平均 148.9km/h)
12 スペインの旗 スペイン モンジュイック
公道サーキット(3.79km)
30周 113.7km
不参戦
30周 113.7km
不参戦

WGP(3気筒TZ350)[編集]

1977年シーズン[編集]

1977年も片山はサロメのスポンサーのチームで参戦する。当初はスズキRG500で500ccクラスにも参戦する予定でいたが、RG500が入手できなかったため、250ccクラスと350ccクラスに参戦することになる。今シーズンの初戦はデイトナで、200マイルで3位、100マイル(250cc)で2位となる[11]

昨シーズン(1976年)は1シーズンでメカニックなどが8人も変わったので、片山は昨シーズン終了後に日本に帰ってからメカニックを探し始める。目星を付けていた人物が今シーズン以降片山敬済のチーフメカニックとしてWGPを転戦することになる杉原真一である。当時杉原は片山義美マツダ ロータリーエンジンのチューニングを担当するチーフメカニックであったが、片山敬済が何度も頼み込み、WGPに一緒に来てもらえることになった[12]

その後、ヤマハモーターNVと契約した片山は、新開発の3気筒エンジンと従来の2気筒エンジンの2種類のTZ350をサーキットによって使い分け、見事日本人初となるWGP350ccクラスのチャンピオンとなる[13]。 ただし片山は韓国籍なので、正確には日本のフェデレーションに所属する選手として初の世界チャンピオン、もしくは東洋人初の世界チャンピオンと表現すべきだろう。

片山はユーゴスラビアGPの前にベルギーで行われたインターナショナルレースで転倒して鎖骨を骨折してしまった。ユーゴスラビアGPの予選の日まで一週間もなかったが片山は手術を受け、スチールプレートとボルトで骨折した鎖骨を固定してユーゴスラビアGPに臨み、350ccで優勝しただけでなく、250ccでも2位になり、人々を驚かせた[14]7月29日・30日イマトラ(フィンランドGP)で行われた決勝レースでは3気筒TZ350を走らせて優勝し、最終戦を待たずに350ccクラスのチャンピオンが確定し、月刊誌『モト・ライダー』(1977年10月号)の表紙を飾った[15]。このレースでは、3気筒エンジンの状態は悪く、チェッカーフラグが振られる時点では2気筒しか動いていなかった[16]

3気筒TZ350は実質片山スペシャルで、その後まともに乗りこなせたレーサーは存在しない。チャンピオン獲得後のコメントでも「チャンピオンは取れると思っていた。自分ほどチャンピオン取るために準備や努力をしている人間はいないし、取れなければおかしいとさえ思っていた」と語る(一部『Number』誌より抜粋)。

Rd. グランプリ サーキット 350ccクラスの結果 備考
1 ベネズエラの旗 ベネズエラ サン・カルロス 出場せず
2 オーストリアの旗 オーストリア ザルツブルクリンク 事故で中止
3 西ドイツの旗 西ドイツ ホッケンハイム 優勝(3気筒)
4 イタリアの旗 イタリア イモラ 3位(3気筒)
5 スペインの旗 スペイン ハラマ 3位(2気筒) ヘアピンが多いコース
6 フランスの旗 フランス ポール・リカール 優勝(3気筒) フレームを使用
7 ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビア オパティヤ 優勝(2気筒) 1週間前に鎖骨複雑骨折
8 オランダの旗 ダッチTT アッセン リタイア(2気筒) チェンジペダル折損
9 ベルギーの旗 ベルギー スパ 350ccクラスのレース無し
10 スウェーデンの旗 スウェーデン アンダーストープ 優勝(2気筒) デッドヒート
11 フィンランドの旗 フィンランド イマトラ 優勝(3気筒) 3気筒のうち1気筒が燃焼せず。
世界チャンピオン確定
12 チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア ブルノ リタイア ニコ・バッカー製フレームを使用。
セッティング出ず。
13 イギリスの旗 イギリス シルバーストン リタイア

250ccクラスではランキング4位となる。

Rd. グランプリ サーキット 250ccクラスの結果 備考
1 ベネズエラの旗 ベネズエラ サン・カルロス 出場せず
2 オーストリアの旗 オーストリア ザルツブルクリンク 事故で中止
3 西ドイツの旗 西ドイツ ホッケンハイム リタイア エンジン焼き付き
4 イタリアの旗 イタリア イモラ 8位
5 スペインの旗 スペイン ハラマ 優勝 途中から独走
6 フランスの旗 フランス ポール・リカール 8位 一時先頭を走るが、キャブレターの取り付け不備により、
片手でキャブレターを押さえながらの走行となる。
7 ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビア オパティヤ 2位 1週間前に鎖骨複雑骨折
8 オランダの旗 ダッチTT アッセン 6位
9 ベルギーの旗 ベルギー スパ 2位 ニコ・バッカー製フレームを使用
10 スウェーデンの旗 スウェーデン アンダーストープ 4位
11 フィンランドの旗 フィンランド イマトラ リタイア
12 チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア ブルノ リタイア
13 イギリスの旗 イギリス シルバーストン リタイア

1970年代初頭にヤマハのワークスライダーであった本橋明泰は次のように語っている。

「片山は立派だ。世界チャンピオンを獲るには、ただレースに速いだけでは駄目で、生活全般にわたって欧米人ライダーと戦えなければならない。そういう意味でも、彼はよくやったと思う」(本橋明泰)[17]

しかし、片山の世界チャンピオンシップ獲得は日本ではほとんど知られておらず、1977年シーズンのモータースポーツ記者クラブの年間クラブ賞では、片山は世界チャンピオンになったにもかかわらず選考から外れそうになった。しかし数人の記者が片山のことを知っていたので、そのような事態は避けられた[18]。当時はバイク雑誌でさえ片山を表紙にしたのは月刊誌『モト・ライダー』(1977年10月号)ぐらいであった[19]。当時、WGPを全戦を取材している日本人はフォトグラファーの木引繁雄しかおらず、木引も多額な自己負担をしながら取材をしている状態であった。日本ではライダーもジャーナリストもWGP関連だけの収入では食べていけない状況であった。それだけ日本ではWGPの認知度が低かったのである。泉優二は片山のために記者会見を計画したが、マスコミ関係者を集めることに奔走した。記者会見の会場やコーヒー代などは泉が負担しなけらばならない状況であった。泉は通信社の知人に頼み、片山の世界チャンピオン獲得を配信してもらった[20]。泉は1978年に、ヨーロッパのF2に参戦していた星野一義から「片山さんは、どうやってヨーロッパで戦っているんですか?」と尋ねられたことがある。星野はヨーロッパのドライバーたちの強引な走り方に戸惑っていたようである[21]。片山も1974年のWGP初参戦時に、コーナー進入時にヨーロッパのライダーに強引にイン側に入られ、ヨーロッパのレースの洗礼を受けた。しかし片山はそれに怯むことなく、次の周では同じことをそのヨーロッパのライダーにやり返した[22]

1978年シーズン[編集]

1978年は、ヤマハNVは日本からYZR500を約1500万円で購入してそれを片山に与え、片山は500ccクラスと350ccクラスに参戦することになる。ヨーロッパのヤマハNV(オランダ)は日本のヤマハ発動機の現地法人であるが、経営は独立採算制になっているため、YZR500を日本のヤマハ発動機から購入しなければならなかった。また、今シーズンのカワサキKR350はとても速く、3気筒TZ350でもかなわなかった。ヤマハNVから与えられたYZR500も、日本のヤマハのワークスマシンのYZR500とは異なるものであった[23]

350ccクラスでの片山は、サン・カルロス(ベネズエラGP)とニュルブルクリンク(ドイツGP)で優勝して年間ポイントを77獲得し、年間ランキング2位となる。同年のチャンピオンはカワサキのワークスマシンKR350に乗るコーク・バリントンで、6回優勝して年間ポイントを134獲得した[24]ニュルブルクリンク(西ドイツGP)ではカワサキKR350を駆るコーク・バリントンと死闘を繰り広げ、最後の3周はコークとテールツーノーズでの接戦となり、フレームを折りながらも、トップでチェッカーを受ける。レース後、TZ350のタンクを外して点検するとフレームが折れていた[25]。片山はコークに

「3回も転倒しそうになった」(片山敬済)

と話すと、コークも

「わかっていたよ。オレも転がりそうになった」(コーク・バリントン)

と言って笑った[25]。この年、二度目のチャンピオンを獲得するチャンスは有ったが、コーク・バリントン+カワサキKR350の速さに屈する。

1978年シーズンの片山のランキングは、350ccクラス2位、500ccクラス5位であった。各レースの結果は次のとおり[26][27]

Rd. グランプリ サーキット 350ccクラスの結果 500ccクラスの結果
1 ベネズエラの旗 ベネズエラ サン・カルロス 優勝(3気筒TZ350のトラブルにより
ニコ・バッカー製フレームの
TZ350で走る)
リタイア(先頭を走るが転倒)
2 スペインの旗 スペイン ハラマ 3位
3 オーストリアの旗 オーストリア ザルツブルクリンク 3位(KR350圧勝) リタイア(マシントラブル)
4 フランスの旗 フランス ノガロ
(3.120km)
36周 112.15km
リタイア(ピストン破損[28]
40周 124.70km
リタイア(転倒)
5 イタリアの旗 イタリア ムジェロ
(5.241km)
25周 131.02km
3位(2台のKR350が圧勝)
29周 151.99km
リタイア
6 オランダの旗 ダッチTT アッセン リタイア 4位(キャブレタートラブル)
7 ベルギーの旗 ベルギー スパ・フランコルシャン 6位
8 スウェーデン カールスコーガ 3位(KR350が1-2フィニッシュ) 3位
9 フィンランドの旗 フィンランド イマトラ 2位 2位
10 イギリスの旗 イギリス シルバーストン リタイア 9位
11 西ドイツの旗 西ドイツ ニュルブルクリンク 優勝(コーク・バリントンと死闘) 5位
12 チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア ブルノ 6位

片山は500ccマシンでも350ccマシンを走らせるときと同じようなライディングをしていたために500ccマシンでは思ったように速く走ることができなかった。その上、片山に貸与されたYZR500よりもRG500の方が速かった。片山はRG500に乗るパット・ヘネンに次のように言われた。

「おまえの500はカメより遅い」(パット・ヘネン)[29]

WGP(NR500)[編集]

1979年ホンダのWGP復活と同時に同チームに移籍。 ホンダと契約した理由を片山は次のように語っている。「ひと言でいえば、ホンダが好きだからです」[30]。 この時ホンダが用意した、革新的な楕円ピストン(1気筒あたり8バルブ2プラグ)を採用した新開発4ストロークV型4気筒マシーンNR500は、思うように開発が進まず成績も低迷する。 1979年シーズンは、イギリスGPシルバーストン)とフランスGPル・マン)のみ参戦するが、2レースともリタイアとなる[30]

1980年は途中から参戦し、スズキの市販ロードレーサースズキRGB500でもレースに出場し、ミザノ(イタリアGP)とハラマ(スペインGP)、ポールリ・カール(フランスGP)でポイントを獲得した[31]

1981年は片山はレースをしていく上でもっとも苦労したシーズンであったが、NR500は片山にとって夢のあるバイクでもあった[32]。しかし、片山は、NR500ではポイントを獲得することができなかった。NR500の3年間は、グランプリ・ライダーとして一番良い時期を無駄にし、もしRG500に乗っていたらチャンピオンになれたかもしれない、と言われていたし[33]、片山はホンダのテストライダーに成り下がってしまった、と言う人さえいた[34]。片山自身もNR500から10年を経て次のように語っている。

「今では時効かな…」「あの3年間、レーサーとして棒にふったな…」(片山敬済)[35]

WGP(NS500)[編集]

1982年シーズン[編集]

1982年ホンダが新たに投入した他メーカーのマシンよりも軽量コンパクトな2ストロークV型3気筒エンジン搭載のNS500に乗る。片山はNR500からNS500に乗り換えてみて、自身のライディング技術が落ちていることを実感した。「ヒラリング」の技術が落ちていたのだ[36]。以前片山はホンダCB250RSの宣伝をしているときに「ヒライヒラリの感覚」と語っていたのだが[37]、その感覚がNR500の3年間で鈍麻していたのだ。それでも第10戦スウェーデンGPアンデルストープ・サーキット)では見事優勝し[36]1975年金谷秀夫以来、日本人2人目の500ccクラス優勝を飾る。第13戦サンマリノGPムジェロ・サーキット)でもファーステストラップを叩き出し、フレディ・スペンサーよりも速いラップタイムで走ることができた。ただ片山の場合は調子を上げてきてトップクラスの速さになったに過ぎず、フレディなどのように常にトップクラスの速さを維持できる状態には至っていなかった[36]

今シーズンのWGP500ccクラスはライダーとレース主催者との間で一波乱あった。第3戦フランスノガロ)が、片山も含めてほとんどのワークスライダーにボイコットされた[38]。その理由は、ノガロの路面状態が悪く[39]安全上問題があり、またパドックの状態も悪いためである[40]

1982年シーズンの片山の戦績は次のとおり[41]

Rd. グランプリ サーキット 500ccクラスの結果
1 アルゼンチンの旗 アルゼンチン ブエノスアイレス 6位(全力で走っての結果[42]
2 オーストリアの旗 オーストリア ザルツブルクリンク 9位(周回遅れになる)
3 フランスの旗 フランス ノガロ レースをボイコット
4 スペインの旗 スペイン ハラマ 6位
5 イタリアの旗 イタリア モンツァ 7位
6 オランダの旗 オランダ(ダッチTT) アッセン 8位
7 ベルギーの旗 ベルギー スパ・フランコルシャン リタイア
8 ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビア オパティヤ 5位
9 イギリスの旗 イギリス シルバーストン リタイア
10 スウェーデンの旗 スウェーデン アンダーストープ 優勝
11 サンマリノの旗 サンマリノ ムジェロ ファステストラップを出したが、転倒リタイア
12 ドイツの旗 西ドイツ ホッケンハイム 18周[43]

1983年シーズン[編集]

1983年、片山は専属トレーナーを伴ってWGPを転戦することにした[44]。そして今シーズンは昨シーズン終盤からの好調を維持し、GP史上に残る激しいトップ争いを行っていたフレディ・スペンサーケニー・ロバーツとの間に割って入る活躍を見せる。ダッチTT(オランダGP)のレース終盤では、先頭を走っていたケニーは勝利を確信してスピードを落としていたが、その背後から片山が迫っていた。しかし、ケニーはそのことに気付かず、チェッカーフラグが振られたときにはケニーと片山の差はわずか0.19秒[45]であった。ケニーが優勝し、片山は2位となる[46]。レース後、ケニーは次のように語っている。

「ぼくは、タカズミとは3秒以上差があると思っていたよ。本当さ。君は、ぼくとタカズミの差が1.8秒に見えたかい?  だからゆっくり行ったんだ」(ケニー・ロバーツ)[47]

片山もレース終了後に、彼を囲む各国の報道陣に次のように語った。

「今年、最高のレースだったよ」(片山敬済)[48]

しかし、最終戦のサンマリノGPで転倒、背骨を圧迫骨折するという重傷を負ってしまい、ランキング5位に終わる。 このシーズンは優勝はできなかったが、2位2回、3位2回という成績を残し、表彰台に4回上がっている。第1戦と第2戦、最終戦がノーポイントのためにランキングは5位になってしまったが、フレディ・スペンサー(1983年世界チャンピオン)やランディ・マモラ(1983年ランキング3位)は、

「カタヤマは実質的には3位だよ」(フレディ・スペンサー、ランディ・マモラ)

と語っている[49]

今シーズンのレースでケニーとフレディの戦いに加わることができたライダーは片山とランディの2人ぐらいであったが、2人とも「彼らにはとてもかなわない」と言い、片山は「彼らは神の領域に入っている」「彼らに追いつこうと思ったら死んじまうよ(苦笑)」と語っていた。今シーズンのケニーとフレディの走りはそれ程凄いものであった[50]

1983年シーズンの結果は次のとおり[51]

Rd. グランプリ サーキット 500ccクラスの結果
1 南アフリカの旗 南アフリカ キャラミ リタイア
2 フランスの旗 フランス ル・マン
3 イタリアの旗 イタリア モンツァ 5位
4 ドイツの旗 西ドイツ ホッケンハイム 2位
5 スペインの旗 スペイン ハラマ 3位
6 オーストリアの旗 オーストリア ザルツブルクリンク 4位
7 ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビア リエカ 5位
8 オランダの旗 オランダ(ダッチTT) アッセン 2位(優勝したケニー・ロバーツとの差は0.19秒[45]
9 ベルギーの旗 ベルギー スパ・フランコルシャン 4位
10 イギリスの旗 イギリス シルバーストン 6位
11 スウェーデンの旗 スウェーデン アンダーストープ 3位
12 サンマリノの旗 サンマリノ イモラ 転倒リタイア(背骨圧迫骨折)

1984年シーズン[編集]

1984年はシーズン前半は圧迫骨折の療養のため参戦できず、思うような成績も残せなかった。

1985年シーズン[編集]

1985年はホンダワークスを離れ、自らのチーム(Racing team KATAYAMA)を率い、ホンダからのマシン貸与という形で新たにロスマンズのサポートを受けて従来のNS500で参戦する。 片山はNS500のフレームに、HRC純正のもののほかに、RS500用のニコ・バッカー製フレームも使用した。このフレームは、キャスター・アングルとトレイルが可変式である。ニコ・バッカーは片山の注文によりフレームを作り変えを行っている。エンジンはメカニックの周郷弘貴が組み直している。周郷曰く「組み直すとバッチリ走るから。工場で組むときはそんなに丁寧でもないし、神経を使っているわけでもないから」。この年、片山は最初のレースとして4月14日に開催されるイモラ200選んだ。WGPの第1戦は3月下旬に南アフリカ共和国のキャラミ・サーキットで開催されたのだが、片山はこのレースには出場せず、片山のマネージャーのジョン・ドシォスの家でテレビ観戦していた。テレビのアナウンサーから「片山」という言葉が出ると、ジョンが同席していた泉優二に向かって次のように通訳した。「片山は南アフリカGPには(アパルトヘイトに)抗議して不参加」(ジョン・ドシォスによる通訳)。イタリアのイモラで行われたイモラ200マイルレースの第1ヒートでは、片山はエディ・ローソンランディ・マモラについで3位に入った。第2ヒートでは、ガソリンタンク下部の部品の取り付けの不備によりピットインしたためにタイムをロスし、6位となってしまったが、総合で3位になった。今シーズンの片山にとってのWGP第1戦目は、WGP第2戦のスペインGP(ハラマ・サーキット)である。決勝レースでは3位を走っていたのだが、11周目にクラッシュしてしまった[52]。第6戦ユーゴスラビアGP(リエカ)では、序盤戦でフレディ・スペンサーと4位争いをしていたが、高速コーナーでローサイドクラッシュをしてしまい、肋骨と首を痛めてしまった[53]。 新型V4マシーンNSR500をはじめとするライバルに戦いを挑むも、1983年のような速さを取り戻せず、第8戦のベルギーGP(スパ・フランコルシャン)で8位入賞後、次のフランスGP(ル・マン)の予選終了後に突如として引退声明を発表。WGPより引退した。

後に「レースを走りたいと思っていない自分に気付いたから」と引退の理由を語っている。 「レースに燃えるものがなくなったので」(片山敬済)とも語っている[53]

レーシングチーム監督[編集]

1986年から前出のRacing team KATAYAMAから国内の若手堀良成、鈴木博之、鈴木淳などを市販RS250でJ-250へ、ベテラン喜多祥介をワークスホンダのNSR250で、菊池正剛、新井亮一をRS250で全日本選手権A-250へ参戦させ、世界選手権250ccクラスへはフランス人のベテランジャン・フランソワ・バルデや片山以来のグランプリ優勝の期待があった福田照男をワークスNSRで参戦させることに成功、500ccにも盟友レイモン・ロッシュをワークスNS500で参戦させた。チーム運営は東亜国内航空やロスマンズのスポンサードもあり、そこそこの成功をもって数年で解散。日本人最後の「コンチネンタルサーカス」具現者。

ダカール・ラリー(ドライバー)[編集]

1990年・1991年にはダカール・ラリーにも参戦し、1990年は三菱自動車のサポートを受けパジェロ改のPX33で出走し、総合25位で完走、1991年は日産・パルサーをベースとしたオリジナルマシンで出走するもののリタイアに終わっている。

戦績[編集]

  • 1971年 - 全日本ロードレース選手権ノービス250デビュー(ヤマハTD2)
  • 1972年 - 全日本ロードレース選手権ジュニア251cc以上チャンピオン
  • 1973年 - 全日本ロードレース選手権エキスパートジュニア750チャンピオン
  • 1974年 - ロードレース世界選手権250ccクラス、ランキング4位(ヤマハ)
  • 1975年 - 全日本ロードレース選手権セニア750(ヤマハTZ750
  • 1976年 - ロードレース世界選手権250ccクラス、ランキング2位(ヤマハ)
    • ロードレース世界選手権350ccクラス、ランキング7位(ヤマハ)
    • ロードレース世界選手権500ccクラス、ランキング26位(ヤマハ)
  • 1977年 - ロードレース世界選手権350ccクラス、チャンピオンヤマハTZ350
    • ロードレース世界選手権250ccクラス、ランキング4位(ヤマハ)
  • 1978年 - ロードレース世界選手権350ccクラス、ランキング2位(ヤマハTZ350)
    • ロードレース世界選手権500ccクラス、ランキング5位(ヤマハYZR500
  • 1979年 - ロードレース世界選手権500ccクラス、ノーポイント(ホンダNR500
  • 1980年 - ロードレース世界選手権500ccクラス、ランキング10位(ホンダNR500、スズキRGB500
  • 1981年 - ロードレース世界選手権500ccクラス、ノーポイント(ホンダNR500)
  • 1982年 - ロードレース世界選手権500ccクラス、ランキング7位(ホンダNS500
    • ロードレース世界選手権500ccクラス・スウェーデンGPで優勝
  • 1983年 - ロードレース世界選手権500ccクラス、ランキング5位(ホンダ)
  • 1984年 - ロードレース世界選手権500ccクラス、ランキング13位(ホンダ)
  • 1985年 - ロードレース世界選手権500ccクラス、ランキング17位(ホンダ)
順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
ポイント 15 12 10 8 6 5 4 3 2 1

凡例)(太字ポールポジション斜体ファステストラップ

クラス チーム マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 ポイント 順位 優勝回数
1974年 250cc ヤマハ TZ250 GER
-
NAT
-
IOM
-
NED
-
BEL
3
SWE
1
FIN
5
CZE
2
YUG
-
ESP
-
43 4位 1
1976年 250cc ヤマハ TZ250 FRA
-
NAT
2
IOM
2
NED
2
BEL
3
SWE
1
FIN
2
CZE
3
GER
7
ESP
-
73 2位 1
350cc ヤマハ TZ350 FRA
4
AUT
-
NAT
10
YUG
3
IOM
9
NED
-
FIN
-
CZE
11
GER
4
ESP
-
28 7位 0
500cc ヤマハ TZ500 FRA
-
AUT
WD
NAT
-
IOM
4
NED
-
BEL
-
SWE
-
FIN
-
CZE
-
GER
-
8 26位 0
1977年 250cc ヤマハ TZ250 VEN
-
GER
-
NAT
8
ESP
1
FRA
8
YUG
2
NED
6
BEL
2
SWE
4
FIN
-
CZE
-
GBR
-
58 4位 1
350cc ヤマハ TZ350 VEN
-
GER
1
NAT
3
ESP
3
FRA
1
YUG
1
NED
-
SWE
1
FIN
1
CZE
-
GBR
-
95 1位 5
1978年 350cc ヤマハ TZ350 VEN
1
AUT
3
FRA
-
NAT
3
NED
-
SWE
3
FIN
2
GBR
-
GER
1
CZE
-
YUG
-
77 2位 2
500cc ヤマハ TZ500 VEN
-
ESP
3
AUT
-
FRA
-
NAT
-
NED
4
BEL
6
SWE
3
FIN
2
GBR
9
GER
5
53 5位 0
1979年 500cc ホンダ NR500 VEN
-
AUT
-
GER
-
NAT
-
ESP
-
YUG
-
NED
-
BEL
-
SWE
-
FIN
-
GBR
NC
FRA
-
0 - 0
1980年 500cc スズキ RG500 NAT
6
ESP
4
FRA
6
18 10位 0
ホンダ NR500 NED
-
BEL
-
FIN
-
GBR
15
GER
12
1981年 500cc ホンダ NR500 AUT
13
GER
-
NAT
-
FRA
-
YUG
-
NED
NC
BEL
-
RSM
-
GBR
-
FIN
-
SWE
-
0 - 0
1982年 500cc ホンダ NS500 ARG
6
AUT
9
FRA
-
ESP
7
NAT
7
NED
8
BEL
-
YUG
5
GBR
NC
SWE
1
RSM
NC
GER
4
48 7位 1
1983年 500cc ホンダ NS500 RSA
NC
FRA
-
NAT
5
GER
2
ESP
3
AUT
4
YUG
5
NED
2
BEL
4
GBR
6
SWE
3
RSM
-
77 5位 0
1984年 500cc ホンダ NS500 RSA
-
NAT
-
ESP
-
AUT
-
GER
-
FRA
-
YUG
-
NED
8
BEL
-
GBR
8
SWE
4
RSM
NC
14 13位 0
1985年 500cc ホンダ NSR500 RSA
-
ESP
NC
GER
11
NAT
-
AUT
14
YUG
NC
NED
NC
BEL
8
FRA
-
GBR
-
SWE
-
RSM
-
3 17位 0

レース活動関連の事柄[編集]

1977年のレース活動等[編集]

プライベーターとワークス その時代背景[編集]

片山は、オランダのヤマハ現地法人(NV)と契約するに至ったが、その身分は、以降のミドルクラス、ソノートのクリスチャン・サロン、ベネズモトのカルロス・ラバードと比較してもワークスやセミワークスと呼ぶには余りにも脆弱な体制であり、ヤマハのレース年表にもあくまで「プライベーターとして最後の世界チャンピオン」と記されている。片山の立場はシュバリエやハリスと言ったコンストラクターのマシンを走らせているレーサーと同じ立場との考えで、普及契約(ヤマハ・モータースポーツ普及課)を断ってヨーロッパに渡った片山の微妙な立場が見て取れる。

250cc・350ccクラスだけ見ても、コーク・バリントンアントン・マンクが片山のチャンピオン獲得後、ケン鈴木率いるカワサキワークス(KR250KR350)で圧勝を繰り返す。70年代後半の350ccクラスは、ただ1勝を挙げるだけでも困難だった時代であり、250ccにしてもカワサキワークスが撤退する83年までプライベーターの勝利は遠いものであった。

77年片山のチャンピオン獲得は、以降多くのプライベーターを勇気づけ、「WGPを支えているのはワークスではない。多くのプライベーター達だ」とのヨーロッパ、コンチネンタルサーカスの常識を形成する。

3気筒TZ350[編集]

3気筒TZ350は、ヤマハのオランダの現地法人ヤマハNVが開発・製作したマシンで、これは250ccのTZに1気筒追加して350ccにしたエンジンを搭載していた。1977年1978年片山敬済が走らせ、1977年に350ccクラスのチャンピオンとなる。エンジン出力は約80PS。キャブレターは当初はミクニ、その後レクトロンに変更した。これはメインジェットがなく、ニードルジェットだけで調整する仕様であった。ラジエーターTZ750用を使用。車重は128kg(2気筒TZ350は118kg)。3気筒TZ350は直線は速いが、コーナリング性能は悪い。このような特性から、片山は、タイトターンが多いサーキットでは2気筒TZ350を、平均速度の速いサーキットでは3気筒TZ350を選んで走った[54]。この3気筒エンジンはセッティングが合えば2気筒エンジンより10PS近い大きな出力と速度が期待できるそうである[55]。エンジンの開発はケント・アンダーソンが担当した[56]


節「1977年シーズン」にある「実質片山スペシャル」とは、高出力化を図ったピストンリードバルブエンジンゆえの宿命であり、余りにもピーキーなエンジン特性で他のヤマハ契約レーサーが乗りこなすことが困難であった為である。当時、ハードライディングと傑出したテクニックで他の追随を許さなかった片山の存在こそが、3気筒TZ350の快走には欠かせなかったと言う事だ。

ヤマハNV[編集]

ヤマハNV(ヤマハモーターNV)は、ヤマハのオランダの現地法人である。当時のヨーロッパのヤマハNVは日本のレーシングチームとある程度競争していた。日本から来るレーシングチームはレースに勝つと日本に帰ってしまうが、ヨーロッパのヤマハNVはレースに勝つことのほかに、売り上げの向上、バイクレース文化の発展を目的とし、それが結果としてメーカーにフィードバックされると考えていた。勝つことだけを目的にヨーロッパにやって来る日本のレーシングチームとはバイクに対する考え方が異なっていた[57]

WGPの日本人[編集]

1977年シーズンのWGP全戦に参戦する日本人レギュラーライダーは片山と根本健の二人だけであった。浅見貞男はフル参戦させてもらえなかった[58]。 WGP全戦を取材するジャーナリストもフォトグラファーの木引繁雄ぐらいで、しかも彼は家はもたずにキャンピングカーで寝泊まりし、1泊500円ぐらいのキャンプ場で生活していた[59]

1978年のレース活動等[編集]

テレビでのドキュメンタリー番組[編集]

フィンランドGP(イマトラ)では、昨シーズン、片山が世界チャンピオンを確定させた場所であり、この年のレースのパンフレットの表紙やポスターには片山の写真が使われていた[60]。 また、泉優二が制作した片山敬済のドキュメンタリー番組が『木曜スペシャル』(日本テレビ)で放送された[61]

1983年のレース活動等[編集]

タンクのストッパー[編集]

片山はNS500タンクシート側に瘤のようなものをガムテープで取り付けていた。コーナーでハングオフした時に太股をこの瘤に当ててストッパーとしていた[62]

モーターホーム[編集]

片山はパドックにモーターホームを入れている。全長は10mを越すと思われるほどの大きさである。そのモーターホームの外観は、他のライダーたちのモーターホームもそうなのだが、汚れている。プライベート・ライダーたちのキャンパーの外観も汚れている。これは、レースをしていく上で、車体の汚れに気を使う余裕がないということを表している。 片山のモーターホームの運転席はかなり高い位置にある。運転席の隣りの助手席は広く、大人が二人座る事が出来るほどある。助手席の後ろには回転が可能な一人用の座席があるが、この座席もかなり大きい。運転席後部から車体中央部まではソファーがあり、中央には取り外しができるテーブルが設置されている。この部分の広さはだいたい3畳間ぐらいである。 車体中央部分には台所があり、水はモーターホーム屋上に設置された水タンクから供給される。台所には流し台やレンジ、冷蔵庫、食品貯蔵庫などが設置されている。 モーターホーム内の暖房はガス暖房である。そして、モーターホームの設備を稼働させるための動力源は、ピットからケーブルで引いてきた電気である。 台所の奥にはシャワールームとトイレ、クローゼットがある。クローゼットの中には常時2 - 3着のライダースーツが掛けられている。 最後尾には寝室があり、広さは4畳半ぐらいである。ソファーベッド式になっており、昼間は応接室のようにもなる。 このモーターホームは、2DKのマンションが車になった、という感じである[63]

モーターホームは価格が高いため一部のトップライダーしか所有することができなかった。パドックに最初にモーターホームを持ち込んだのはケニー・ロバーツであるが、片山はケニーのモーターホームを見て、翌年はケニーのものより大きなモーターホームを持ち込んだため、ケニーはムッとした表情を浮かべていた。最大のモーターホームを持っていたのはフレディ・スペンサーであった[64]

1985年のレース活動等[編集]

活動拠点をオランダからフランスへ[編集]

1985年、片山はレース活動の拠点をオランダからフランスのニースへ移した。片山の家の敷地内にはメカニックの杉原真一周郷弘貴の住居もある。片山の住居のガレージがNS500の整備スペースである[65]

片山の走り NRとの関わり[編集]

77年にチャンピオンを決めたフィンランドのイマトラは、コース内に踏切[66][67]のジャンピングスポットがある公道GPコースであり、片山が得意としていたコースの一つである。また、70年代の雨のグランプリでは他を寄せ付けない速さを見せ「雨の片山」との異名を持っていた。このことから「片山は悪条件下で速いと」評する向きもあるが、70年代はとにかく「速かった」のである。70年代末期から80年代初頭に開発が進まないNR500と過ごした時期については、引退後の自著『片山敬済 AURA LEGEND』誌の文中「NR時代を過ごしたおかげで"ヒラリング"技術が低下した」(p184)と自らのコーナリングテクニックについて述懐している。そんな不遇の80年代初頭には、ホンダでのGP参戦すら適わない状況の中、市販ロードレーサースズキRGB500で4位入賞も果たしている。TZ350での快走や、テストもままらない500ccクラスでのプライベート・スズキRGB500での上位入賞などを背景にすると、「片山の走り」とは、どんなバイクも速く的確に乗りこなせてしまう適応性が高いタイプ(同じようなタイプは平忠彦もコメントしているエディ・ローソン)。その過剰なまでの自信が、当時常識を逸脱したホンダNR4ストローク500ccのGPマシンでのチャレンジに向かわせたのだろうが、レーサーとして脂の乗り切った4年もの歳月を「無駄」に過ごした代償は余りにも大きかったと、以後のモータースポーツシーンで語られる場合が多い。

人物[編集]

  • 1976年シーズンにランキング2位になったとき、天才、プリンスなどと言われるようになったが、片山自身は自分のことを素質のある秀才だと思っている[68]
  • 国籍は韓国だが日本生まれの日本育ちであり、ライセンスも日本で取得している。国籍を世間に公表したのが引退後と言う事情もあるが、マシンのネームの横に国籍を示す意味で描かれた国旗、優勝時に掲げられた国旗・流された国歌も全て日本のものであり、競技上は完全に「日本人」としての参戦だった。原田哲也が1993年に250ccでチャンピオンを獲得した際にも、「16年振りの日本人チャンプ」と表現されていた。
  • レーサーとしての精神性を武士道といったものの中に求め、メンタル(精神)トレーニングに取り入れていた事から、欧米のライダーからは神秘的な男だと評されていた。
  • 災害時発生時に救急救援活動を行うバイクレスキュー隊のNPO法人『BERT』を松下弘幸らと2012年春に設立。代表理事を務めている。

映画[編集]

出演映画

出演が予定されていた映画[69]

脚注[編集]

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  1. ^ 片山敬済 俺だけの2輪テクニック』(カバー - 著者紹介)より。
  2. ^ グランプリ・ライダー』(p75, p76, p81 - p83, p86)より。
  3. ^ 片山敬済 俺だけの2輪テクニック』(p150)より。
  4. ^ グランプリ・ライダー』(p77, p78)より。
  5. ^ グランプリ・ライダー』(p78, p79)より。
  6. ^ グランプリ・ライダー』(p76)より。
  7. ^ グランプリ・ライダー』(p88)より。
  8. ^ グランプリ・ライダー』(p85, p86)より。
  9. ^ グランプリ・ライダー』(p91 - p100)より。
  10. ^ 第7戦から第12戦までの距離とタイムのデータは『ライダークラブ』第4号、1977年2月25日発行(p34, p35)より。
  11. ^ グランプリ・ライダー』(p101)より。
  12. ^ 天駆ける』(p57, p58)より。
  13. ^ サーキットの軌跡』(p142)、『Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix』(p94)より。
  14. ^ サーキットの軌跡』(p142)より。
  15. ^ モト・ライダー』1977年10月号(p151, 表紙)より。
  16. ^ 片山敬済 俺だけの2輪テクニック』(p10)より。
  17. ^ グランプリ・ライダー』(p222, p223)より。
  18. ^ グランプリ・ライダー』(p110, p111)より。
  19. ^ モト・ライダー』1977年10月号「表紙」より。他のバイク雑誌『オートバイ』『モーターサイクリスト』では表紙を飾らなかった。
  20. ^ グランプリ・ライダー』(p223, p224)より。
  21. ^ グランプリ・ライダー』(p224, p225)より。
  22. ^ 片山敬済 俺だけの2輪テクニック』(p41, p42)より。
  23. ^ グランプリ・ライダー』(p111 - p117)より。
  24. ^ Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix』(p197)より。
  25. ^ a b 片山敬済 俺だけの2輪テクニック』(p11)より。
  26. ^ グランプリ・ライダー』(p117 - p120)より。
  27. ^ 第4戦と第5戦の距離とタイムのデータは『ライダースクラブ』1978年8月号(p75 - p80)より。
  28. ^ ライダースクラブ』1978年8月号(p80)より。
  29. ^ グランプリ・ライダー』(p121)より。
  30. ^ a b グランプリ・ライダー』(p122)より。
  31. ^ Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix』(p198)より。
  32. ^ 片山敬済 俺だけの2輪テクニック』(p14, p15)より。
  33. ^ グランプリ・ライダー』(p124)より。
  34. ^ グランプリ・ライダー』(p126)より。
  35. ^ 頂へ』(p107)より。
  36. ^ a b c グランプリ・ライダー』(p128)より。
  37. ^ 片山敬済 俺だけの2輪テクニック』(p114)より。
  38. ^ Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix』(p113)より。
  39. ^ サーキットの軌跡』(p170)より。
  40. ^ MotoGP Source Book: Sixty Years of World Championship Motorcycle Racing』(p143)より。
  41. ^ 頂へ - 片山敬済の疾走』(p105 - p111)より。
  42. ^ 頂へ』(p105)より。
  43. ^ 片山敬済 AURA LEGEND』(p196)より。
  44. ^ 片山敬済 俺だけの2輪テクニック』(p190)より。
  45. ^ a b 片山敬済 AURA LEGEND』(p197)より。
  46. ^ 片山敬済の戦い - オランダGPの16ラップ』(p214)より。
  47. ^ 片山敬済の戦い - オランダGPの16ラップ』(p206)より。
  48. ^ 片山敬済の戦い - オランダGPの16ラップ』(p217)より。
  49. ^ グランプリ・ライダー』(p130)より。
  50. ^ グランプリ・サーカス』〈ちくま文庫〉(p245)より。
  51. ^ Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix』(p200)より。
  52. ^ グランプリ・ライダー』(p26 - p70)より。
  53. ^ a b サーキットの軌跡』(p185)より。
  54. ^ a b グランプリ・ライダー』(p101 - p103)より。
  55. ^ モト・ライダー』1977年10月号(p151)より。
  56. ^ KEN'S TALK 2』(2006年9月1日)より。
  57. ^ グランプリ・ライダー』(p101, p102)より。
  58. ^ グランプリ・ライダー』(p248)より
  59. ^ グランプリ・ライダー』(p253, p254)より。
  60. ^ 片山敬済 俺だけの2輪テクニック』(p18)より。
  61. ^ 「カバー - 著者紹介」『グランプリ・ライダー』より。
  62. ^ 片山敬済の戦い - オランダGPの16ラップ』(p37)より。
  63. ^ 片山敬済の戦い - オランダGPの16ラップ』(p17 - p21)より。
  64. ^ 片山敬済[疾走する戦士たち]』(p58)より。
  65. ^ グランプリ・ライダー』(p20 - p23)より。
  66. ^ イマトラの踏切は悪評が高く、危険な場所の例としてあげられている --『Motocourse: 50 Years of Moto Grand Prix』(p102)より。
  67. ^ フィンランド国鉄特急踏切の手前でバイクの走行時間帯が過ぎるのを待っていた --『グランプリを走りたい』(p154)より。
  68. ^ 天駆ける』(p40)より。
  69. ^ グランプリ・ライダー』(p256)より。

参考文献[編集]

ウェブサイト

書籍 (著者・編者の五十音・アルファベット順)

雑誌 (雑誌名の五十音順)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]