熊沢光子
熊沢 光子(くまざわ てるこ、1911年8月9日 - 1935年3月25日)は、日本の戦前の社会運動家。
経歴[編集]
愛知県名古屋市の弁護士の家庭に生まれる。愛知県立第一高等女学校卒業。愛知県庁に勤務。1931年、米よこせ運動や消費組合運動をしていた山本秋により[1]社会運動に参加。
1933年2月、4歳下の妹勝子[2]とともに家出して上京、カフェの女給などをしながら運動に参加。同年3月党中央委員大泉兼蔵と知り合い、翌4月大泉のハウスキーパーとなる[3]。この年日本共産党に入党。
1933年12月24日、大泉が特高警察のスパイの疑いで東京市渋谷区幡ヶ谷の党アジトで査問されると、熊沢も呼ばれ査問される。党幹部として信頼を置いてきた大泉がスパイであることを自白したと知り、熊沢は絶望し運動を続ける自信を失って同日夜自殺を決意。迷惑が及ばないように大泉と心中することを党に提案・了承される。1934年1月14日、大泉と共に遺書を書くが、警察の動きを察知しこの日に予定していた自殺を中止、二人は東京市目黒区下目黒にある党中央委員候補木島隆明のアジトに送られた。翌15日、大泉は逃亡をはかるが、乱闘の後鳥居坂警察署に連行され、熊沢は騒ぎと無関係と見られ茫然と歩いているところを目黒警察署の巡査に捕らえられた[4]。のち獄中で自殺[5]。
関連文献[編集]
脚注[編集]
- ^ 山本秋『昭和米よこせ運動の記録」(白石書店、1976年)p239によれば、この年の名古屋矢場町でおこなわれた消費組合の演説会に参加したのがきっかけだったという。
- ^ 共産青年同盟で活動した。
- ^ 立花隆『日本共産党の研究』講談社、1978年、下巻p.397
- ^ 立花隆『日本共産党の研究』講談社、1978年、下巻p.443-450
- ^ デジタル版 日本人名大辞典