煙突掃除人

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ジョン・コルファー(John Colfer) 煙突掃除人 アイルランド ウェックスフォード 1850年

煙突掃除人(えんとつそうじにん、chimney sweep)は、煙突内部に溜まったを掃除する人、またその職業。煙突は、その熱によって生じた気流の圧力差を利用して石炭や木材を用いた燃焼部に空気(酸素)を引き込み、上部(煙突の出口)へと流すことで継続的な燃焼を可能としている。通常は煙突は垂直にまっすぐであるが、場合によっては途中で曲がっている可能性もある。煙突は使っていくうちに、その内部にクレオソートの層が形成されて狭まり、空気の流れが悪くなっていく。また、クレオソートには引火性があり、煙突や建物の火災に繋がることもある(煙突火災英語版)。このため、煤を取り除く、煙突掃除が必要となる。これは親方掃除人(master sweep)によって行われていた。

イギリスにおいて煙突掃除人は法的には徒弟制であり、一般的には大人である親方掃除人がワークハウスや孤児の少年を助手(弟子)として雇入れ、彼らを煙突内部でよじ登れるように訓練して掃除をさせた(クライミング・ボーイ、climbing boys)。ドイツ連邦では、親方掃除人は職人ギルドに属していたが[1]、クライミング・ボーイは用いられていなかった。イタリアやベルギー、フランスでは、クライミング・ボーイが使用された。

歴史[編集]

親方煙突掃除人(右)とSpazzacaminoとして知られる徒弟少年 19世紀の終わり イタリア

工業化時代に起こった都市人口の増加は、煙突のある家も急速に増やし、煙突掃除人の需要も大きくなった。

建物は以前よりも高くなり、また新規に建てられた煙突は、頂部を一つの排出口にまとめてしまう新しい形式だった[2]。個々の火格子(炉)の煙道の経路には、2つ以上の直角に曲がる箇所(水平方向と垂直方向の向きを変える箇所)が含まれる場合があった(右図「地下室のある4階建ての家の煙道7本の断面図」のA)。また、通風をよくするために煙突は狭く作られ、14インチ(約35.6センチメートル)×9インチ(約22.9センチメートル)が一般的な規格になっていた。バッキンガム宮殿には15の曲がり角を持つ1つの煙道があり、さらに大きさは9インチ×9インチに狭められていた[3]。煙突掃除は当時の職業の中でも最も難しく危険で低賃金であったために、詩やバラード、パントマイムの演目の中で嘲笑されてきた。

最初の機械式掃除機は1803年にジョージ・スマートによって発明されたが、その導入に関してはギリスとアメリカでは反発があった。1828年にジョセフ・グラスが改良された掃除機を売りに出し、これによって彼は現代の煙突掃除ブラシの発明者であるとされている[4]。アメリカ北部では白人たちがこの職業を担うことはなく、南部から黒人少年たち(スイープボーイ)を雇った[5]。イギリスでは1875年に、アメリカでは世紀が変わる頃に、ようやく規制がなされ、その後、この職業は大衆文化における人気のある題材として扱われるようになった。

英国[編集]

内径約28センチメートルの煙突2つの断面図、約10歳のクライミング・ボーイを示す。左側、ボーイは背中と両膝を煙突に押し付けて登っている。右側の図では、少年の両膝はあご先に押し付け、両ふくらはぎ、両太もも、胴体が煙突をふさいでおり、上にも下にも動けなくなっている。

煙突掃除は幼くとも4歳ほどの男児(Boys as young as four)が担い、最小でも81平方インチ(9x9インチすなわち23x23cm)の熱い煙道をよじ登った。この作業は危険を伴い、少年が煙道の中から出られなくなり、窒息死したり、焼死することもあった。煤には発がん性があり、ボーイらは煤袋の下で眠り、ほとんど洗われなかったため、煙突掃除人癌(chimney sweeps' carcinoma)と呼ばれる職業病なりやすかった。1775年から、ボーイらの福祉に対する懸念が高まり、制限する議会法(Acts of Parliament)が可決され、1875年にその使用が停止された[6]。慈善家アントニー・アシュリー=クーパー (第7代シャフツベリ伯爵)が後の運動を率いた。

煙突は1200年ごろから英国で使われるようになり、それまっでは1部屋の家の真ん中で火を焚いていた。最初は建物内に暖房付きの部屋が1つ設けられており、煙突も大きなものが用いられた。それから400年以上もの間、部屋の数が増え、各部屋も狭くなり、多くの部屋に暖房がいきわたった。木材に取って代わる形で使われ始めた粉状瀝青炭(Sea coal)は、煙道の内面に可燃性のクレオソート層を堆積させ、それを煤で固めた。以前は煙突が煙の通気口であったが、今や高温気体の羽毛を使用して空気を火に吸い込み、これはより狭い煙道を必要とした[7]。そうでさえ、建物規制が制定され煙突の設計が変更されるロンドン大火の前にはボーイらが煙突によじ登ることはまれであった。新しい煙突はしばしば、かどばっていて狭く、国内の家産の煙道の通常の寸法は9インチ(23 cm)x 14インチ(36 cm)であった。狭い煙道を登れない親方掃除人に代わり、クライミング・ボーイと呼ばれる少年たちが雇われるようになった。彼らは裸で煙道をよじ登り[8]、すりむけてひりひりしている膝と肘でわが身を推し進めた。彼らはしばしば熱い煙突をプット・アップして、時には火を消すために燃えている煙突をプット・アップした。鋭い角(かど)のある煙突は、特別な危険をもたらした[9]。これらボーイらは掃除人の徒弟となり、1778年から1875年まで一連の法律が彼らの労働条件を規制しようとし、議会報告書に多くの直接の記述が文書化され出版された。1803年ころから、煙突にブラシをかける別の方法があったが、掃除人とその顧客は変化に抵抗し、新しい人道的な掃除機よりもクライミング・ボーイのほうを選び好んだ[10]。義務教育は、1870年の教育法(Education Act 1870)によって1870年に確立されたが、煙突掃除人を認可し、最終的にボーイらが煙突に送られるのを防ぐ法律が制定されるまでにはさらに5年かかった[11]

クライミング・ボーイ[編集]

地下室のある4階建ての家の煙道7本の断面図。 Mechanics'Magazine の1834年の挿絵で、煙突掃除人と子供たちの煙突掃除人の対照を示すようにデザインされている。
  • A. 炉床、垂直な煙道、水平な煙道、そしてブラシにとっては困難な直角の曲がりを2つ持つ垂直方向の立ちあがり。
  • B.背中、ひじ、ひざを使ってボーイが登っている長い真っ直ぐな煙道(14インチ x 9インチ)。
  • C.2階の炉床からの短い煙道。クライミング・ボーイは、直径が小さすぎてその方法で出られない煙突のポットに到達している。
  • E.は災害を示す。クライミング・ボーイは煙道に閉じ込められ、膝があご先にぶつかっている。
  • G.煙道を真っ直ぐにして、機械的手段で掃除可能にする方法
  • H.煙道のカント(cant)に堆積した煤の落下で窒息死したクライミング・ボーイ。

クライミング・ボーイ(またはガール[12][13])は、法の条項を厳格に適用すれば「煙突掃除人徒弟」(chimney sweeps' apprentices)と呼ばれ、大人であるために大きすぎて煙突や煙道に収まらない「親方掃除人」(master sweep)に弟子入りした。彼は孤児や貧乏人に技能を教えて教区によって支払われたものだ。彼らは完全に彼を信頼していた――彼らまたは彼らの後見人は、彼らが大人になるときまで彼らを彼に縛り付ける治安判事の前で、年季証文に署名していた。教区への経費を削減するために、救貧院の多くの子供らをできるだけ多く徒弟にするのは、救貧法の後見人の義務であった。親方掃除人には義務複数があった――技能とその秘訣を教えること、徒弟に2着目の服を与えること、週に1回身体を洗わせること、教会に通うことを許可すること、燃えている煙突に上げないこと。徒弟は彼の主人に従うことに同意した[14]。いったん7年間の徒弟期間が完了すると、彼は一人前職人の掃除人になり、彼が選んだ親方掃除人のために働き続けた。掃除人に売られる、あるいは両親によって売られる徒弟もいた。価格は7シリング[15]から4ギニーの範囲であった。

6歳はボーイを訓練するのに良い年齢であることが一般的に合意されていた[16]。シャフツベリー卿はかつて4歳のに会ったけれども、彼らはあまりにも弱いと考えられた[16]。親方掃除人には多くの徒弟がいて、朝は通りを歩き回って「"Soot -Oh, Sweep"」と叫んだり、家の所有者に自分たちが回っていることを知らせるために別の叫び声を上げたりした。これは、掃除されていない煙突の危険性の所有者らに思い出させたものだ。契約すると、親方掃除人は暖炉の上に布を固定し、クライミング・ボーイはブーツと余分な服を脱いで、それからその後ろに隠れたものだ。煙道は家と同じくらいの高さで数回ねじれたもので、その寸法は14インチ×9インチであったものだ。彼はキャップ帽を顔までかぶり、大きな平らなブラシを頭上にかざし、身体を斜めに煙道にくさびで留めたものだ[17]。背中、両ひじ、両ひざを使って、芋虫のように煙道をシミーを踊りながら進み[16]、ブラシを使ってゆるい煤を取り除き、煤は彼の上から下まで落ち、スクレーパーは滑らかな煙突は安全な煙突だったので、固い部分を削り取ったものだ。てっぺんに達した後、彼はスピードを出して床と煤の山にすべりおりて戻ったものだ。こんどは煤を袋に入れ、それを親方掃除人のカートまたは庭に戻すのが彼の仕事であった。 煤は貴重で、1840年に1ブッシェル9ポンドで売ることができた[18]。徒弟は1日4本か5本の煙突をやったものだ。彼らが最初に始めたとき、彼らは膝と肘をこすり、それで親方は彼らを熱い火の近くに立たせて、ブラシを使って強い塩水でこすって彼らの皮膚を固くしたものだ。これは、皮膚が固くなるときまで毎晩行われた[16]。少年たちは賃金を得ず、彼らを養う親方とともに住んでいた。彼らは床や地下室で、煤を捕まえるために日中に使用された袋と布の下で一緒に眠った。これは「眠っている黒」("sleeping black")として知られていた[17]。そのボーイは庭のおけで女主人に洗われたものだ。これは週に1回程度の頻度で発生する可能性があったが、まれである。ある掃除人はサーペンタインで自分のボーイらを洗い流したものだ[19]。別のノッティンガムの掃除人は、自分らはクリスマス、ウィットサン、グース・フェアのために、年に3回洗濯すると主張した。時々は、ボーイは煙突をもっと速くまたはもっと高くよじ登るように説得される必要があり、親方掃除人は彼がもっと頑張るように励ますために、わらの小さな火か硫黄のろうそくのどちらかを照らしたものだ。 また、窒息防止を目的として、別のボーイが作業中のボーイの臀部あるいは足の裏をピンで刺すことがあった[20]

煙突のサイズはさまざまであった。一般的な煙道は、長さ1.5レンガ、幅1レンガになるように設計されているが、彼らはしばしば、9インチ(230 mm)x 9インチ(230 mm)以下の1つのレンガの正方形に狭めた[21]。しばしば、煙突はまだ火から熱く、時には実際に燃えていることもあったものだ[15][22]。不注意なクライミング・ボーイは、両膝をあご先に押し付けたまま立ち往生することもあった。彼らは激しく苦労すればするほど、ますますくさびのように動けなくなった。下から押し出されるか、ロープで引き抜かれるまで、何時間もこの位置に留まることがあった。もし彼らのもがきが煤の落下を引き起こしたなら、彼らは窒息するだろう。生死にかかわらずボーイは取り除かれなければならず、これは煙突側面かられんがを取り除くことによって行われた[23]。もし煙突が特に狭ければ、ボーイらは「それをバフする」("buff it")ように命じられ、つまり、裸で行うように言いつけられた[24]。そうでなければ、彼らはズボンと、厚手の粗い綿布で作ったシャツを着ているだけであった。

健康と安全懸念[編集]

これらの子供たちがさらされている状況は懸念を引き起こし、煙突掃除人のための機械的手段を促進する協会が複数設立されたし、われわれがその仕事がかならず何を伴い得るかについてより良い考えを持っているのは、それらのパンフレットを通してである。ここで掃除人はボーイ1人の運命を述べている――

ボーイは煙突を通り抜け、暖炉の2つ目の角度に降りたのち、それが完全に煤で満たされていることに気づき、煤を直立部の側面から取り除いた。彼は乗り越えようと努力し、肩まで苦労したあげく、成功した。しかし、自分の努力によって、煤が彼の周り全体で激しく圧縮されていること、自分はそれ以上後退し得ないことがわかる。彼はそれから前進しようと努めるが、この点での彼の試みは非常に不成功で実らない。煙道の水平部の被覆が石であるので、その鋭どい角は肩にはげしく、後頭部のために彼はどちらにもまったく動くことができない。顔はすでにクライミング・キャップ帽でおおわれ、顔は下のすすに強く押し付けられているので、彼の息を止めさせる。この恐ろしい状態で、彼はわが身をあらあらしく解き放とうと激しく努めるが、強さが彼から脱ける。彼は泣き、うめき声を上げ、数分後には窒息している。警報がそれから発せられ、煉瓦工1人がやられ、煙道に開口部が開けられ、少年は引き出されるが、生命がないとわかる。まもなく死因審問が行われ、検死官の陪審は『事故死』('Accidental Death')の評決を返す」(After passing through the chimney and descending to the second angle of the fireplace the Boy finds it completely filled with soot, which he has dislodged from the sides of the upright part. He endeavours to get through, and succeeds in doing so, after much struggling as far as his shoulders; but finding that the soot is compressed hard all around him, by his exertions, that he can recede no farther; he then endeavours to move forward, but his attempts in this respect are quite abortive; for the covering of the horizontal part of the Flue being stone, the sharp angle of which bears hard on his shoulders, and the back part of his head prevents him from moving in the least either one way or the other. His face, already covered with a climbing cap, and being pressed hard in the soot beneath him, stops his breath. In this dreadful condition he strives violently to extricate himself, but his strength fails him; he cries and groans, and in a few minutes he is suffocated. An alarm is then given, a brick-layer is sent for, an aperture is perforated in the Flue, and the boy is extracted, but found lifeless. In a short time an inquest is held, and a Coroner's Jury returns a verdict of 'Accidental Death.' ")[25]

しかしながら、煙突掃除人がこうむった職業上の危険はこれらだけではなかった。議会への1817年の報告では、証言者らは、クライミング・ボーイらは全般的なネグレクトに苦しんでおり、脊椎、脚、腕の発育阻害と変形を示しており、これは骨が固化する前の長時間にわたる異常な姿勢でいる必要があることによって引き起こされると考えられる、と報告した。膝と足首の関節が最も影響を受けた。視覚喪失につながることもあるまぶたの痛みや炎症は、少年がまぶたをこすり続けるために、治癒が遅かった。あざや火傷は、過熱環境で作業しなければならないことの明白な危険であった。陰嚢癌は煙突掃除人に多く発見されたので、外科医の間では煙突掃除人癌(Chimney Sweep Cancer)と呼ばれた。喘息と肺炎は、ボーイらがすべての天候で外出していたという事実に帰せられた[26]

掃除人たちから煤疣(すすいぼ、英:soot wart)と呼ばれた「煙突掃除人癌」(Chimney sweeps' carcinoma)は、掃除人が10代後半や20代になったときに初めて発症する病気であり、現在では陰嚢扁平上皮癌の症状として同定されている。1775年、パーシヴァル・ポット卿はこの病気の患者がクライミング・ボーイや煙突掃除人たちに多いことを報告しており、最初に見つかった職業病の癌となった[27]。ポットの記述は以下のとおりである。

それは常に陰嚢の下部で最初に発症する病気であり、表面的な痛みを伴う散発的な苦痛を伴う痛みを引き起こし、時々、鋭い痛みが生じる。それほど長い時間がかからずに皮膚や浅陰嚢筋膜へ浸潤します。そして陰嚢の膜へ腫瘍が拡大するにつれ睾丸が侵され硬化していき完全に機能を失います。そこから腫瘍は精索の流れを通って腹部へと癌が進行していく。
(It is a disease which always makes it first attack on the inferior part of the scrotum where it produces a superficial, painful ragged ill-looking sore with hard rising edges…in no great length of time it pervades the skin, dartos and the membranes of the scrotum, and seizes the testicle, which it inlarges [sic], hardens and renders truly and thoroughly distempered. Whence it makes its way up the spermatic process into the abdomen.)。

彼はまたボーイら少年たちの人生についても以下のように述べている。

これらの人々の運命は奇妙なまでにつらいようであり...彼らはひどくむごたらしい待遇を受けている...彼らは狭い、時には熱い煙突の中を突き上げられている、〔ママ〕そこで彼らはやけどしといった負傷を受け、ほとんど窒息している。そして思春期になると…きわめて不快な、痛ましい、そして致死的な疾患にかかりやすくなる
(The fate of these people seems peculiarly hard…they are treated with great brutality…they are thrust up narrow and sometimes hot chimnies, [sic] where they are bruised burned and almost suffocated; and when they get to puberty they become…liable to a most noisome, painful and fatal disease.)。

発癌性物質は、もしかしたらヒ素を含んでいるかもしれないコールタールであると考えられた[25][28]

少年が熱い煙突の煙道に詰まり、窒息して焼死する事故が相次いだほか、救助に駆り出された別の少年も煙道にとらわれて死亡するケースもあった[29]

規制[編集]

煙突掃除人

1788年に、1788年の煙突掃除人法:『煙突掃除人とその見習いのより良い規制のための法律』(Chimney Sweepers Act 1788: An Act for the Better Regulation of Chimney Sweepers and their Apprentices)が可決され、掃除人を、少なくとも8歳、徒弟6人に制限されたが、法施行されていなかった[30]。見習いキャップ帽章が導入された。この法は、ジョーナス・ハンウェイと彼の2つの出版物『The State of Chimney Sweepers' Young Apprentices』(1773年)とのちの『Sentimental History of Chimney Sweeps in London and Westminster』(1785年)によって示されたクライミング・ボーイへの関心によって霊感を与えられていた。彼は、議会が奴隷制の廃止とともに行使されているいっぽうで、それは新世界でクライミング・ボーイに課せられる奴隷制を無視している、と主張した。彼は、掃除人が警察によって規制されているスコットランド エジンバラに目を向けた。クライミングは許可されておらず、煙突は親方掃除人自身がぼろきれの束を煙突を上下に引っ張って掃除した。彼は、煙突をよじ登ることのが有効な徒弟奉公と見なされる方法をわからなかったが、それは得られたスキルは、将来の雇用につながらない煙突を登るスキルだけだったから[31]。ハンウェイは、キリスト教をボーイらの生活に取り入れるべきだと主張し、ボーイらのための日曜学校のために議員工作した。上院は、親方掃除人が許可免許を与えられるべきであるという提案された条項を削除したし、市民登録(civil registration)の前は、子供が実際に8歳であるかどうかを誰もが確認できる方法はなかった。

同年、人道的な親方掃除人デヴィッド・ポーターが議会に請願書を送り、1792年に『煙突掃除人の救済と規制を目的とした議会法に関するいくつかの観察とともに彼らの現状に関する考察』(Considerations of the Present State of Chimney Sweepers with some Observations on the Act of Parliament intended for their Relief and Regulation)を発表した。彼はボーイらの福祉に関心を持っていた一方、ボーイらは新しい機械式洗浄機のどれよりも効率的である、と信じていた。1796年に『貧困者状態改善』(Bettering the Conditions of the Poor)のために協会が形成され、彼らはハンウェイとポーターの小冊子を読むことを奨励した。彼らには、影響力のあるメンバーらとジョージ3世から王室の後援があった[32]。煙突掃除人の少年の保護と教育のための友愛協会(A Friendly Society for the Protection and Education of Chimney-Sweepers' Boys)が1800年に設立された[33]

1803年には、機械的なブラシがクライミング・ボーイ(人間ブラシ)にとってかわることができ、そして1796年の協会のメンバーらがThe London Society for Superseding the Necessity for Employing Climbing Boysを結成していると一部の人々は考えた[32]。子どもたちが7インチ×7インチの小さな煙道を掃除していることを認めた彼らは、機械式ブラシへの競争を促進した。この賞は、ジョージ・スマートが、実際には、体節化された長いケーン(cane)に着いているブラシ・ヘッドであり、それらケーンを通りぬける順応可能なコードによって固くされている、と主張した[34]

1834年の煙突掃除人法(Chimney Sweepers Act 1834)には、必要な規制の多くが含まれていた。それは、徒弟は、自分が『進んで望んでいる』(willing and desirous)と治安判事の前で自分自身を表現しなければならないと述べた。親方は14歳未満の男の子を徒弟にすることが禁じられたほか、徒弟の人数も6人に制限され、徒弟を別の親方に貸しだすことも禁じられた。すでに徒弟である14歳未満の少年は、革のキャップ帽の上に真鍮製のキャップ・バッジを着用する必要がある。また、徒弟も火を消すために煙道を登ることが禁じられた。通りの呼び声は規制された[35]。親方掃除人たちはこの法案に反対し、一般大衆も「クライミング・ボーイが煙道を掃除しなければ財産が危ない」と信じた。

また、その年、煙突の建設に関連する建築規則が変更された。

1840年の煙突掃除人および煙突規制法(Chimney Sweepers and Chimneys Regulation Act 1840)により、21歳未満の人間による煙突掃除が違法とされたが、違反事例が相次いだ。1852年と1853年に問題を再開する試みが行われ、別の調査が召集され、さらに証拠が得られた。議案はなかった。煙突掃除人規制法1864、C37は、法律を無視していた親方掃除人に対する罰金と懲役を承認し、警察に容疑で逮捕する権限を与え、新しい煙突と改造された煙突の商務庁の検査を承認することにより、管理を大幅に強化した。シャフツベリー卿は法案の主要な支持者であった。

1875年2月、12歳の少年、ジョージ・ブリュースターが、親方ウィリアム・ワイアーからフルボーン病院の煙突に送られ、出られなくなる事故が発生した。救出には壁全体を取り壊す必要があり、彼はまだ生きていたが、その後まもなく死亡した。検死官の死因審問は過失致死の評決を返した。ワイアーは重労働で6ヶ月の禁固刑の判決を宣告された。シャフツベリ卿は事象を掌握し、彼の運動をふたたび押した。彼はタイムズあてに一連の手紙を書き、1875年9月に別の法案を議会に提出し、ついに少年を煙突に送る慣行を止めた[36][37]

1875年の煙突掃除人法(Chimney Sweepers Act 1875)は、1875年に可決され、煙突掃除人が『地区でその事業を遂行するために警察によって承認されること』(to be authorized by the police to carry on their businesses in the district)を必要とし、こうして以前のすべての法律を施行する法的手段を提供した[30]

米国[編集]

ブラシとスクレーパーをもった、ニュー・ヨークからのアフリカ系アメリカ人のクライミング・ボーイ4人のスタジオポートレート。2人は立っていて、2人はひざまずいている。 彼らは11歳から14歳のように見え、粗い服を着てぼろぼろのハット帽をかぶっている

米国での掃除の歴史は、英国のそれとほとんど変わらない。違いは、住宅の性質と政治的圧力から生じる。初期の入植者の家は木でできていたうえに、家と家との距離が狭かったため、燃えるとすぐに隣家に広がった。このために当局は煙道の設計を規制した。早期から、消防監督官(fire wardens)と検査官(inspectors)が任命された。

これらの低い建物の広い煙道の掃除はしばしば、はしごを使用して煙突に広いブラシを通して、世帯主自身によって行われた。狭い煙道では、レンガとブラシウッドの袋が煙突内を落とされた。しかし、より長い煙道では、足と臀部に燃える藁とピンを使用する強制と説得の伝統を備えたクライミング・ボーイが使用された[5]。掃除は人気のある取引ではなかった。18世紀の間に、アフリカ系アメリカ人の煙突掃除人の雇用は南から北に広がった。アフリカ系アメリカ人の掃除人は差別に直面し、非効率的で火事を出すと非難された。煙突が白人少年に掃除されるロンドンでは、ニューヨーク市よりも火災が少ないと主張された。英国と同様に、スマート(Smart)の掃除機は1803年の直後に米国で利用可能であったが、ほとんど使用されなかった。英国とは異なり、クライミング・ボーイを擁護するために結成された協会はなかった。それどころか、匿名作家の同時代の小説『Tit for Tat』(1856年)は、彼らはロンドンの煙突掃除よりも、のんきにやっていると主張することによって黒人奴隷煙突掃除人の苦難を否定するところまで行った[38]

掃除人のフェスティヴァル[編集]

ロンドンのボーイらは、5月1日(メーデー)の1年に1日の休日を過ごした。彼らは通りをパレードし、ジャック・イン・ザ・グリーン(Jack in the Green)と踊りツイストし、いくつかの民俗伝統を融合することで祝った[39]。またサンタ・マリア・マッジョーレにおける掃除人フェスティヴァルもあり[40]、これは、イタリアで、そしてケントのロチェスターであり[41]、そこでは1980年に伝統が復活された。煙突掃除人についての最も有名な文学作品の1つ[42]が、ウィリアム・ブレイクの詩『The Chimney Sweeper』である。

幸運のシンボルとしての煙突掃除人[編集]

  • 英国では、花嫁が結婚式の日に煙突掃除人を見るのは幸運だと見なされている。多くの現代の英国の掃除人は、この伝統にしたがって結婚式に出席するために雇われる[43][44]
  • ドイツ、ポーランド、ハンガリー、クロアチア、チェコ共和国、スロバキア、スロベニア、ルーマニアとエストニアでは、煙突掃除人はまだ、黒または白のハット帽とともに伝統的な黒ずくめの制服を着ている。通りですれ違うときボタンの1つをこすったりつかんだりすることは幸運と見なされる。英語版[要出典]
  • ドイツでは、煙突掃除人は幸運のシンボルとみなされ、新年の贈り物のモチーフとして人気である。花束に付けられた小さな装飾か、キャンディー、たとえばマジパンの煙突掃除人[45]。彼らの伝統的な制服は、金色のジャケット・ボタンと黒いシルクハットとともに黒ずくめのスーツである。

大衆文化[編集]

煙突掃除人はビクトリア朝の文学および、ビクトリア朝時代に関連した作品において、児童労働者を虐待する無情な悪党として描かれることが多く、たとえばチャールズ・キングズリーの『水の子どもたち』では、若い煙突掃除人が主人公として登場する。また、マイケル・クライトンの犯罪小説『大列車強盗』(1975年)では、狭い場所を潜り抜ける特技から"snakesman"というあだ名を持つ元煙突掃除人クリーン・ウィリー・ウィリアムズが登場する。

  • それはまたチャールズ・ラムのエッセイ「"The Praise of Chimney-Sweepers"」(1929年にペーパーバック形式で出版された)の背後にあるビジョンでもあると言われている[46]
  • イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクは、特に「無垢と経験の歌」(1789年)と「経験の歌」(1794年)の2部に分かれて出版された「"The Chimney Sweeper"」で、煙突掃除人をより良い生活を望む虐待されている子供として描き、一般的な掃除人の生活を陳列し、彼らに対する野蛮な行動が起こらせている人々を暴露した。
  • チャールズ・ディケンズの小説『オリバー・ツイスト』(最初に1837年から1839年に連載された)では、ガムフィールドと呼ばれる悪質な煙突掃除人がオリバーを見習いにしたいと思っているが、いよいよというときに治安判事が移動を認可することを拒否する(「ガムフィールド氏は、すでに3人か4人の少年にあざをつけて死に至らしめたというささいなぬれぎぬを着せられてほんとうに偶然に労働していた」("Mr Gamfield did happen to labour under the slight imputation of having bruised three or four boys to death already"))[47]
  • Jonathan Auxierの小説『Sweep: The Story of a Girl and Her Monster』(2018年)は、煙突掃除の少年を主題としている。これは架空の物語であるが、児童労働を終わらせる1875年の運動を含む、ヴィクトリア朝イングランドの話題の歴史と歴史的人物から引き出している[48]
  • A・M・Watsonの文学小説『Infants of the Brush: A Chimney Sweep’s Story』(2017年)は、1720年代ロンドンのクライミング・ボーイの生活を描き、ランドマーク財産法事件『Armory v. Delamirie』の中央の煙突掃除少年の生活に焦点を当てている[49]
  • Darrell Riversの『Charlie the Chimney Sweep: A Lamentable Tale of Reform』(2019年)は、1834年の煙突掃除人法(Chimney Sweepers Act 1834)の可決により作業が妨げられ、代わりに鉛鉱山で働く若い煙突掃除人についての子供らの話である[50]
  • ユダヤ人の著者 Kurt Held によってスイスで1941年に書かれ、しかし妻リザ・テツナーの名前で刊行された長篇小説『黒い兄弟』は、スイスのヴェルツァスカ渓谷(Valle Verzasca)に源を発する、19世紀北イタリアの、いわゆるSpazzacaminiの生活を描いている。同作は『ロミオの青い空』としてアニメ化された。

新しいブラシの開発と児童労働の終焉により、煙突掃除人は児童労働のイメージから、機敏で気さくな男性のイメージに変えた。 このイメージの例としては、パメラ・トラバースによる本シリーズ『メアリー・ポピンズ』および、ウォルト・ディズニーによる映画化作品『メリーポピンズ』が挙げられる。『メリーポピンズ』では陽気な労働者らが大胆不敵なアクロバットで労働日の終わりを祝う場面があり、彼らのリーダー「バート」(ディック・ヴァン・ダイクが演じる)は、1965年に第37回アカデミー賞アカデミー歌曲賞を受賞した「チム・チム・チェリー」を歌う。コーラスとは、煙突掃除人と幸運の伝統的な関連性を指す。「"Good luck will rub off when I shake 'ands with you, or blow me a kiss ... and that's lucky too"」。

このほかにも、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの「羊飼いと煙突掃除人」(1845年)という物語では、磁器製の煙突掃除人の人形と羊飼いの人形の恋愛が描かれている。羊飼いがタンスと結婚させられそうになった時、煙突掃除人はストーブパイプを通って羊飼いを煙突の上まで誘導し、彼女に愛を告白する[51]ルース・レンデルの犯罪/ミステリー小説『煙突掃除の少年』(1998年)は、主人公の変容とアイデンティティを表す、より正式には『Epichnopterix plumella』として識別される、その名前のガ(蛾)を中心的プロット・デバイスとして持っている[52]

現代における煙突掃除[編集]

今日における煙突掃除人。

現代において、煙突掃除人は、石炭や灯油、天然ガス、木やペレット型の燃料を暖房に用いる家にとって必要とされている。煙突の堆積物や一酸化炭素および燃焼によって生じたガスの危険性についてはより深い理解を得られている。煙突掃除人は煙突ブラシに加え、掃除機やカメラ、および専用の道具を用いている[要実例]。通常は、ほこりや煤の拡散を防ぐため、煙突掃除は下から行われる。チェックは上下どちらか一方から行われるが、可能な場合は双方から行うことがある。掃除中に煙突の中から思いがけないものが出てくることもあり、鳥の死骸から道具、メモ、ラブレター、エフェメラ(手紙やチラシなど、保存を目的としない印刷物)までさまざまである[53]

現代の煙突掃除人の大半はプロフェッショナルであり、引火しやすいクレオソートの除去、火室とダンパー修理、煙室修理などのメンテナンスとともに、危険を診断し修理するよう訓練されている。一部の掃除人は、煙道修理と再ライニング、クラウン修理、石造煙突とセメント・クラウンの山形目地仕上げまたは再建のような、より複雑な修理も提供する。

米国では、Chimney Safety Institute of Americaと National Chimney SweepGuildという業界の規制を支援する2つの業界団体がある。煙突掃除人の認証は2つの組織によって発行される―― Certified Chimney Professionals と The Chimney Safety Institute of America Certified Chimney Professionals と The Chimney Safety Institute of America は、最初に認定を確立し、3年ごとに再テストするか、CSIA または National Fireplace Institute を通じて CEU を取得してテストをバイパスすることにより、教育への取り組みを実証するためのスイープを必要とします。煙突を裏打ちする煙突掃除人の認証は、Certified Chimney Professionals と Chimney Safety Institute of Americaによって発行される。CEUクレジットは、これらの組織や地域の協会、およびプライベート・トレーナーから取得できる。

英国では、煙突掃除人は規制されていないが、多くの煙突掃除人は、Association of Professional Independent Chimney Sweeps[54]、the Guild of Master Chimney Sweeps,[55] 、Guild of Master Chimney Sweeps[56]、そしてNational Association of Chimney Sweeps [57]といった業界団体に所属している。メンバーにサポートを提供するだけでなく、彼らは DEFRA (Department for Environment, Food and Rural Affairs)および他の利害関係者にトレーニングと代表を提供している。

脚注[編集]

引証と注釈[編集]

  1. ^ Strange 1982, p. 40
  2. ^ Strange 1982, p. 7
  3. ^ Strange 1982, p. 64
  4. ^ Strange 1982, p. xiii
  5. ^ a b Strange 1982, p. 90
  6. ^ Strange 1982, p. 80
  7. ^ Strange 1982, pp. 5–6
  8. ^ Strange 1982, p. 30
  9. ^ Waldron 1983, p. 390
  10. ^ Strange 1982, pp. 46–47
  11. ^ Strange 1982, p. xiv
  12. ^ Mayhew 1861, p. 347
  13. ^ Strange 1982, p. 19
  14. ^ Strange 1982, p. 12
  15. ^ a b Strange 1982, p. 21
  16. ^ a b c d Strange 1982, p. 14
  17. ^ a b Strange 1982, p. 18
  18. ^ Mayhew 1861, p. 353
  19. ^ Strange 1982, pp. 71,72
  20. ^ Strange 1982, p. 13
  21. ^ Strange 1982, p. 16
  22. ^ Strange 1982, p. 27
  23. ^ Strange 1982, p. 26
  24. ^ Strange 1982, p. 71
  25. ^ a b Waldron 1983, p. 391
  26. ^ Mayhew 1861, p. 350
  27. ^ 坪倉正治 (2018年9月16日). “がん研究、煙突掃除が最初”. 福島民友新聞社. 2020年11月22日閲覧。
  28. ^ Schwartz, Robert A. (2008). Skin Cancer: Recognition and Management (3 ed.). Wiley. p. 55. ISBN 978-0-470-69563-0. https://books.google.com/books?id=X6CMGuQmQi4C&q=mule+spinners%27+cancer+squamous+cell+carcinoma.&pg=PA55 2011年5月2日閲覧。 
  29. ^ Mayhew 1861, p. 351
  30. ^ a b Key dates in Working Conditions, Factory Acts (Great Britain 1300 – 1899)”. 2012年3月19日閲覧。
  31. ^ Strange 1982, p. 37
  32. ^ a b Strange 1982, p. 43
  33. ^ (The Times 16 April 1800, Page 1, Column b.)
  34. ^ Strange 1982, p. 44
  35. ^ Strange 1982, p. 65
  36. ^ 2 The Asylum Years”. human-nature.com. 2018年4月8日閲覧。
  37. ^ Strange 1982, p. 31
  38. ^ Strange 1982, p. 93
  39. ^ Mayhew 1861, p. 370
  40. ^ Museo dello Spazzacamino – Home page”. museospazzacamino.it (2012年9月10日). 2012年9月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月8日閲覧。
  41. ^ Rochester Sweeps Festival Archived 3 July 2013 at the Wayback Machine.
  42. ^ Chimney sweep history – Return in Romans – History of chimney sweeping”. doctorchimney.com. 2018年4月8日閲覧。
  43. ^ Chimney sweep weddings”. chimneycleaners.co.uk. 2018年4月8日閲覧。
  44. ^ http://www.luckysweepleicester.com/history
  45. ^ File:German new year's gift, four leaf clovers with chimney sweep ornament.jpeg
  46. ^ Lamb, Charles & Waudby, Roberta F. C. (Illustrator) (1929). The Praise of Chimney-Sweepers (First ed.). London: J. M. Dent & Sons. https://www.biblio.com/booksearch/author/charles-lamb/title/the-praise-of-chimney-sweepers  Paperback. 29 pages.
  47. ^ Strange 1982, pp. 119–122
  48. ^ Auxier, Jonathan (2018). Sweep: The Story of a Girl and Her Monster. Harry N. Abrams. ISBN 978-1419731402. https://www.goodreads.com/book/show/38917312-sweep?ac=1&from_search=true&qid=IQwXYFpBXL&rank=1 
  49. ^ Watson, A.M. (2017). Infants of the Brush: A Chimney Sweep's Story. Red Acre Press. https://www.goodreads.com/book/show/36960160-infants-of-the-brush?from_search=true&qid=vVruDAN1wK&rank=1 
  50. ^ Rivers, Darrell R (2019). Charlie the Chimney Sweep: A Lamentable Tale of Reform. ISBN 978-1074438760. https://www.goodreads.com/book/show/48002972-charlie-the-chimney-sweep?from_search=true&qid=WjPBgUWHoa&rank=2 
  51. ^ Strange 1982, p. 132
  52. ^ Vine, Barbara (26 March 1998) (English). The Chimney Sweeper's Boy (First; hardback ed.). United Kingdom: Viking (UK)/Harmony (US). ISBN 0-670-87927-4. https://www.goodreads.com/book/show/12261559-the-chimney-sweepers-book 
  53. ^ STRANGE OBJECTS IN CHIMNEYS” (英語). Exeter Chimney Sweep (2020年4月1日). 2020年4月2日閲覧。
  54. ^ The Association of Professional Independent Chimney Sweeps.
  55. ^ the Guild of Master Chimney Sweeps.
  56. ^ the Guild of Master Chimney Sweeps.
  57. ^ The National Association of Chimney Sweeps.

文献[編集]

外部リンク[編集]

米国: