焦コウ

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本来の表記は「焦竑」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

焦 竑(しょう こう、1540年-1620年)は中国儒学者歴史家。字は弱侯。澹園または漪園と号す。澹園先生または漪園先生、焦太史と呼ばれる。

生涯[編集]

江寧(江蘇省南京市)の出身。幼少より刻苦勉励し諸生(科挙を受験する候補生)の時から評判が高く、督学御史の耿定向に学び、疑義を羅汝芳に質すようにしていた。嘉靖43年(1564年)に郷試に合格。万暦17年(1589年)に北京で行われた会試・殿試で第一等の成績で状元となり、翰林院修撰に任命され国朝典章を司る。さらに皇帝の長子の講官にまでなるが、万暦25年(1597年)に曹大咸楊廷蘭により弾劾され、福寧州同知に左遷された。翌年に福建福寧州、また次の年には太僕寺丞に異動させられ、辞官してその後は出仕しなかった。80歳で没する。熹宗は先代に対する講読の恩を記念するために焦竑を復官させ、福王(朱常洵)の時に文端(または文憲)と追諡した。

焦竑の学問は羅汝芳に教えられたことを基本とし、経史から裨史雑説にいたるまでの幅広いものだった。「蔵書両楼」と言われるほどの蔵書家であり、『焦氏蔵書目』2巻がある。

著書[編集]

  • 『國朝獻徴録』
  • 『國史経籍志』
  • 『澹園集』
  • 『老子翼』
  • 『莊子翼』
  • 『楞嚴經精解評林』
  • 『楞伽經精解評林』
  • 『圓覺經精解評林』
  • 『法華經精解評林』

参考文献[編集]

  • 『明史』巻288