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澱川橋梁

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澱川橋梁
Yodogawa Railway bridge of Kintetsu 002 KYOTO JPN.jpg
基本情報
日本
所在地 京都府京都市伏見区
交差物件 宇治川
設計者
施工者
関場茂樹(設計)
阪根繁三郎(製造監督)[1][2]
建設 1928年4月1日 - 1928年10月16日[3]
座標 北緯34度55分31.6秒
東経135度45分56.3秒
座標: 北緯34度55分31.6秒 東経135度45分56.3秒
構造諸元
形式 複線下路プラット分格トラス(ペティット(ペンシルバニア)トラス)[2]
材料 鋼材
全長 162.4m[2]
9.75m(32フィート:主構橋中心間隔)[4]
最大支間長 164.59m(540フィート)[2]
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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澱川橋梁(よどがわきょうりょう、Yodo-Gawa Bridge)は、京都市伏見区宇治川にかかる鉄道用トラス橋である。奈良電気鉄道が自社線(現在の近畿日本鉄道京都線)の開業にあたり架設した。

本橋梁は比較的水量の多い河川を1径間で渡る長大な複線下路式トラス橋であり、完成以来2012年現在まで、日本に存在する単純トラス橋としては最大の支間長を備えることで知られる。

建設経緯[編集]

京都と奈良を結ぶ第2の鉄道として建設され、開通まで経由地や線形の変更を幾度となく繰り返してきた奈良電気鉄道線にあって、本橋梁も経路は変更されなかったものの、特異な経緯により桁形式が途中で全面変更されている。

当初計画の頓挫[編集]

奈良電気鉄道線の建設計画を進めた浅井郁爾技師長を筆頭とする同社技術陣は、京都起点4マイル6チェイン(約6.6km)付近の宇治川(澱川[注 1][5])を渡河するにあたって、当初は沿線に存在するもう一つの大河である木津川を渡る木津川橋梁と同様、河中に7本の橋脚を立てて70フィート(21.336m)プレートガーダー桁6連と40フィート(12.192m)プレートガーダー桁2連を架設する案に従って橋梁の具体設計を進めていた。

だが、架橋を予定した地点の周辺には計画当時、帝国陸軍の架橋演習場(渡河訓練場)が設置されていた。奈良電気鉄道が宇治川渡河にあたってこの演習場用地の一部について払い下げを申請したことから、本橋梁の架橋計画は大きな変更を強いられることになる。

1927年当時、この架橋演習場では京都師団工兵第16大隊による架橋演習が頻繁に実施されており、その訓練計画も「工兵隊教育順次表」[注 2]に従って年間予定が定められていた[6]。この架橋演習には目視の困難な暗夜の演習が含まれていたため、多数の橋脚を河中に建設することは事故を誘発する危険があり絶対に認められない、と工兵第16大隊大隊長であった石井英橘大佐が奈良電気鉄道による河中への橋脚建設案に対し強硬に反対した。これに対し、建設コストが低廉なプレートガーダー桁を使用したい奈良電気鉄道側は再三にわたり陸軍当局に対し橋脚設置許可の陳情を重ねたが、遂にこの陳情が要望通りに聞き入れられることはなかった[注 3][7][8]。陸軍省本省側は、大蔵省の用地処分決裁後に出す予定の16師団経理部長への通牒案(1928年2月)において、「教育上差障ナキ限度ニ於テ出願ノ橋梁ニ橋脚一ヲ設備セシムルハ差支ナキモ将来之ヲ増加セシメサルコトニ関シテハ周到ナル規定ヲナスコト」とし、橋脚1本は容認する見解を示していたが、以下の通り奈良電気鉄道側はこれを待たずに代案に着手することとなる[9]

ちょうどこの時期、即位したばかりの昭和天皇御大典京都御所で執り行われ、式典の終了後、各施設の拝観や御陵の参拝などが国民に認められることとなった。そのため、沿線に伏見桃山陵が存在し、開通の暁には大阪電気軌道奈良線へ乗り入れるだけでなく大和西大寺から橿原線へも直通し、京都橿原神宮前を直結する計画であった奈良電気鉄道は、大きな旅客需要が期待されるこの絶好のチャンスに、何としてでも全線開業を間に合わせる必要に迫られた。

こうして、路線建設のための時間的猶予を失った奈良電気鉄道は宇治川渡河について経済的なプレートガーダー桁案を放棄し、高コストを承知で陸軍側の要望に従う形で、河中に橋脚を設けずに済む長大な単独トラス桁により本橋梁を架設することを決断[注 4][5]した。これにより架橋演習場内への橋梁架設について陸軍側の了解を得て着工にこぎ着けた。

巨大トラス橋[編集]

以上のような経緯で、本橋梁は無橋脚、1径間での渡河に適した長大な曲弦プラット分格トラス桁として架設されることとなり、その設計は当時の日本を代表する橋梁設計の大家であった関場茂樹[注 5]の手に委ねられた。

もっともこの時代、この巨大橋梁が必要とする長さと厚さを備えた大型鋼材は日本国内に市中在庫が存在しなかった。また日本国内で唯一、その種の鋼材の製造供給が可能と目されていた八幡製鐵所では当時軍用、特に軍艦用の需要を満たすのが精一杯で、発注後必要な納期にそれらを得ることもできなかった[注 6]

そのため、関場ら設計陣は設計着手後間もない1927年10月末までに最優先で必要部材の一覧表を作成、部材調達を請け負った浅野物産とアメリカ有数の大手製鋼メーカーベスレヘム・スチールが東京に設けていた支店の連携によって、全体の83パーセントにあたる約1,500tの鋼材[10]の注文書をアメリカのベスレヘム・スチール社本社へ打電、可能な限り速く国内で入手が不可能な部材を調達する手配を行った。

これは、折良く日本へ向かう船便に恵まれたことから、発注後2ヶ月半で大半の部材が神戸港へ入荷するという、当時の日米間貨物輸送体制では最良に近い成果を得た[1]。なお、本橋梁の主部材はこのようにベスレヘム・スチール社からの輸入に拠ったが、それ以外にもUSスチール・プロダクツ社と八幡製鉄所から鋼材供給を受けている[11]

だが、最大の難問であった鋼材納入について最良の結果を得たと言っても、その時点で絶対的な工期の不足がほぼ致命的な水準に達していたことに変わりはなかった。国内で調達可能な補助部材については先行して調達と加工を実施するようにしたものの、主要鋼材到着後にそれらを工場で加工し、工場で一旦仮組みした後に分解、輸送し現場で再度組み立てるという、大規模構造物建築で常識とされる手順を踏んでいたのでは、1928年1月の鋼材到着後、1928年11月に予定された御大典までの10ヶ月に満たない短期間でこの橋梁を完成させ、路線そのものの開業にこぎ着けることは到底不可能であった。

そこで関場らは、実際に橋桁の製造を担当する川崎造船所兵庫工場[注 7](本橋梁工事中の1928年5月18日付で川崎造船所から独立[注 8]、川崎車輛兵庫工場となる)[12]での仮組工程を省略し、加工済み部材を現場にて直接組み立てることを決断した。

仮組を省略した場合、その分の所要時間を節約できるが、その反面、部材の切断ミスや接合用リベットのために予め開口された鋲孔のずれなどがあった場合、それらの修正のために架設工事全体が大きく遅れ、仮組を実施するよりもかえって時間がかかってしまう危険がある。そのため、川崎造船所で実際の桁製造を監督することになった阪根繁三郎技師はその部材製作工程の管理および工作精度の維持に細心の注意を払うことを強いられ、また設計を担当する関場らもミスが一切許されないため、本橋梁に関する各種図面の精査に追われた。

工事[編集]

現場での組み立て・橋台の施工、そして架設全般を担当したのは、奈良電気鉄道の大株主であった京阪電気鉄道および大阪電気軌道の双方に縁が深く、この種の架橋工事について経験の豊富な大林組であった。

橋桁だけで1,810t、軌条や枕木を合わせて約2,000t、通過する60t級電車6両編成2本分の荷重720tを入れると総計2,700tもの重量になる[13]本橋梁の場合、それを支える橋台の設計と施工には特に慎重な作業が要求され、しかも上述の通り工期が極端に短く失敗が許されなかった。そのため、当初は先行して架橋工事が完了していた木津川橋梁で実績があった、直径8フィート(243m)、深さ25フィート(7.62m)、厚さ8インチ(203.2mm)の円筒形鉄筋コンクリート製井筒3本2列を水中堀にして沈め、これらの上に橋台を構築することが検討された[14]

だが、本橋梁と同じ淀川水系での治水工事に経験豊富で工事現場の地質についても知悉した谷口三郎技師[注 9]から大型構築物の沈函工法が適当との助言が得られ、この工法により1928年4月1日に橋台根掘りを開始、同年5月26日に鉄筋コンクリート製橋台の両岸への埋設作業が完了した[15]

その作業工程においては、時間的余裕が無く沈函後に試験荷重をかけてテストすることができなかった[注 10][16]ため、通常40本の基礎杭を打設する所に直径10インチ(25.4cm)長さ30フィート(9.14m)の松丸太による基礎杭を60本打設して地盤を徹底的に打ち固め、試験を行う必要性そのものを無くしている[注 11][17][18]

こうして橋台が完成し、兵庫の川崎造船所から淀川を遡航して現場まで運ばれた部材により、橋桁本体の組み立てと架設が本格的に開始された。設計・製造の双方の努力が実り、現場に到着した各部材の加工精度はほとんど修正を要しない水準に達しており、むしろ高精度ゆえに弦材支承面の密着が良すぎて組み立て作業に手間取るほどであった[19]

また、橋桁本体を組み上げる工程においては、効率化を図って大林組が設計したゴライアスクレーン(門型自走式クレーン)が導入され、威力を発揮した。

このゴライアスクレーンは、橋桁本体の組み立てに用いる鋼製で大型のものと、船で運ばれてきた部材を仮設足場上へ揚陸するための木造で小型のものの2種が用意された。いずれも上部に電動巻き上げ機を、下部に台車をそれぞれ備え、橋桁の組み立て工程の進捗に合わせて仮設足場上に敷設された4列のレール上を移動する設計であった。大型のものは、工事完了後に柱部を分解し他の工事現場で工事用エレベーターに転用可能な寸法として設計され、高さ100フィート(30.48m)、長さ54フィート8インチ(16.66m)、と本橋梁の規模に見合った極めて巨大な構造物であった[20]

橋桁の組み立ては、当初計画では固定端とされた右岸側から順に下弦材を左岸まで並べて全長分を結合、他の主要部は大型ゴライアスクレーンを用いて右岸から中央付近まで組み立てた後、左岸までクレーンを移動、そこから再度中央へ向けて組み立てを進め、最後に中央部で結合して完成とする予定であった。

しかし、橋台の建設過程で右岸側が遅れたため、下弦材の組み立てについては右岸寄り2番目の部材を所定位置に置いて組み立てを開始し、順次左岸まで組み立て、最後に右岸寄り1番目の部材を結合するように変更した。ところが、これも渇水で淀川を遡航する船運に問題が生じ、予定通りに部材が届かなくなったため作業手順の再変更を迫られた。この結果、右岸寄りの一部床梁やストリンガーなどの組み立てを前倒しで行い、その後で部材到着順に左岸へ向けて下弦材を結合、左岸到達後に左岸から床梁やストリンガーの組み立てを始めて右岸寄りの組み立て済み部分に到達するまで作業を進め、床部の組み立てが終わったところで、既に組み立てが完了した下弦材と右岸橋台の間を結ぶ最後の下弦材を組み、そこの床梁とストリンガーの組み立てを行い床部全体を先に完成状態とするという、非常に込み入った複雑な作業手順とすることでこの工程での遅延の発生を最小限に抑えている[21]

続く上弦材の組み立て順序も、この下弦材組み立て工程の混乱の影響で組み立て順序が変更された。当初とは逆に左岸へ大型ゴライアスクレーンを移動してそこから中央へ向かって順に上弦材を組み立てた後、クレーンを右岸へ移動、そこから再度中央へ向けて上弦材を組み立て、最後に中央の水平な上弦材を組み付けることとなったのである[16]

この組み立て作業においては合計73,094本のリベットが使用された。それらの鉸鋲作業はスケジュールの関係で夏の炎天下での実施となったが、川崎造船所から派遣された工員30名がリベット打ち5組と穿孔機2組に分かれて従事し、約60日におよぶ作業日程で鉸鋲作業を全て完了した[22]

こうして組み上がった橋桁の塗装は浅野物産が担当し、同社の工員20名によりValdura Asphalt Paintと称する銘柄の塗料(色はダークグリーン)が塗布された。各部材には加工を行った川崎造船所で下地塗りとして光明丹が予め塗布されており、塗装工程では通常部位に2回ずつ、リベット結合部については3回ずつ塗装を行った。この作業には前後30日を要し、消費された塗料の総量は約1,300ガロンに及んだ[22]

完成[編集]

こうして架設当時の最新技術を惜しみなく投入し、人智を尽くして工期短縮のための努力が重ねられた結果、総工費83万9千23円95銭を費やした本橋梁は、御大典を約1ヶ月後に控えた1928年10月16日に完成した。設計者である関場らは後日発表の論文の締めくくりにおいて「天帝の御加護に依り」と記したが、それは工事に関わったありとあらゆる人々の努力の賜であった。

なお、奈良電気鉄道線そのものは難航した桃山御陵付近の高架線[注 12][23][24][3]が71日間の突貫工事の末、同年11月12日に完成し、京都での即位の礼の儀式が全て終了した同月15日、京都 - 大和西大寺間34.5kmがようやく全線開業した[25]

橋梁を通過中の列車長は約80m。

構造[編集]

鋼材をリベットで接合して組み立てたトラス桁を、両岸に埋設された鉄筋コンクリート製橋台上に架設する。

本橋梁では、長さ46フィート(14.02m)幅21フィート(6.4m)、壁厚2フィート6インチ(762mm)の箱形鉄筋コンクリート製基礎を埋設して橋台としている。

橋桁は典型的な曲弦プラット分格トラス構造を採る。通常、この種の桁では対角材の経済的な傾斜角が45°となることから、必然的に背の高い中央部の分格長が長く、両端部の分格長が短く設計される。だが、本橋梁においては、仮設足場および上述したゴライアスクレーンの能力や、部材加工時の生産性向上、それに工事作業の簡略化を考慮して、全体を18に分け、各分格長を30フィート(9.144m)で統一している。また、中央の第9・第10分格の上弦材は水平として桁高を下弦材から80フィート(24.38m)の位置に置き、両端の第2・第17分格の下弦材はそれぞれ第1・第18分格との接合点での高さを40フィート(12.19m)としている[26]

奈良電気鉄道デハボ1000形デハボ1012
奈良電気鉄道開業時に唯一在籍した旅客車形式で自重34tの半鋼製車。
主要機器の艤装前の撮影で台車も仮台車である。

工事開始当時、奈良電気鉄道では車両限界の小さな16m級の中型電車[注 13][27][28]であるデハボ1000形1両あるいは2両編成での運行を計画しており、また財政的にも決して豊かでなかったことから短尺レールを使用するなど、低規格での路線建設を進めていた。しかし、本橋梁の設計にあたっては財政難であったにもかかわらず、またそうした当初の車両運行計画状況であったにもかかわらず、将来の車両大型化と橋梁そのものの長命化を見越して、その列車荷重や両側構間の間隔については大きな余裕を持たせた寸法・強度が設定された。

橋梁上を京都市交通局10系電車が通過中。6両でも自重は約200tで、設計時に想定された6両編成(360t)よりも格段に軽い。

すなわち、列車荷重は1901年に示されたクーパー荷重にてE24[注 14][29]とし、当時としては破格の60.8t級電車[注 15][29][30][31]6両編成が橋梁上で行き交う状況を想定して設計し、なおかつその衝撃係数の算定に当たってAREA(American Railway Engineering Association:アメリカ鉄道技術協会)の衝撃係数式を採用したため、本橋の設計衝撃力は現在の標準的な設計の約1.2倍と非常に大きな余裕が与えられている[32]。また、建築限界に影響する両側構間の中心間隔は、やはり複線分としても大きく余裕を持たせ、32フィート(9.75m)幅としている[33]

本橋は日本では前例のない巨大橋梁であることから、強風時の風圧による風荷重や気温変化による熱応力についても慎重に余裕を持たせて設計された。特に副応力を最小限とするため、径間中央の縦桁に伸縮点を設けている[34]。もっとも風荷重については設計当時のアメリカの基準に依ったと見られ、145kg/m2とその後の日本における標準値である300kg/m2の半分以下の値として設計されている。ただし、この値については通風時の風下側での遮蔽効果についての計算基準が現在の標準とは異なっており、計算上現在の標準の約6割しか風荷重を受けないとされている[35]

こうした将来を見据えた配慮により、本橋梁は架橋から80年以上が経過し通過する電車が活荷重の大きな21m級大型電車6両編成となった2011年現在においても、設計衝撃力に大きな余裕を持たせて設計されていたことから活荷重増大分が相殺され、桁そのものについては設計に何ら手を加える必要もないまま、ほぼ完成時そのままの状態での使用が可能となっている。

現状[編集]

本橋梁は木津川橋梁、伏見第一・第二高架橋と並ぶ奈良電気鉄道線の重要施設の一つであり、奈良電気鉄道が近畿日本鉄道へ吸収合併され同社京都線となった際にもそのまま承継された。そのため、完成以来実に80年以上にわたりほぼ竣工時のままの姿[注 16]で、使用され続けている。

ただし、1977年に橋桁を支える主構可動支承のロッカー部分、つまり振動や熱膨張などによるずれ、あるいは伸縮を吸収する重要部品が損傷していることが明らかとなった[36]。このため、1983年に問題となった主構可動支承ロッカー部の新型支承板への交換や、縦桁支承および端対傾構ガセットなどの摩耗部材について補修を実施することで延命が図られている[36]

本橋梁は2001年10月18日に近鉄澱川橋梁という名称で「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として国の登録有形文化財(登録番号26-0073)に指定されている。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 宇治川は淀川の本流に相当し、正式な河川名は淀川である。このため、本橋梁に「澱川」の名称が与えられている。
  2. ^ 1925年11月発表。
  3. ^ この陸軍による反対は、ときに軍部の横暴として語られることがある。だが、こと本橋梁に関する限りは、先に当該地区に演習場を開設していたのは陸軍側であり、石井大佐麾下の工兵第16大隊は上述したように奈良電気鉄道に対しては本橋梁の架設計画確定後に作業場1,800平方メートル、演習場2,300平方メートルと決して小さくない面積の軍用地を伏見地区高架線建設のために払い下げている。つまり、営業を継続した場合に高架化費用の負担を強いられることを嫌ってのものという事情があったとはいえ営業中の伏見貨物駅を廃止し同駅を含む旧奈良線用地を高架橋建設用地として払い下げた鉄道省と共に、この工兵第16大隊を擁する京都師団は奈良電気鉄道線建設に伴う用地確保について、この時代の日本陸軍としてはむしろ異例なほど好意的に協力しているのである。架橋演習場内の河中に橋脚を7本建設したい、とする奈良電気鉄道の要望が容れられなかったのは、工兵第16大隊が本橋梁の架橋予定地以外に渡河演習用地が確保できておらず、また宇治川流域の近隣地域での適切な代替地確保も困難な状況であった(そればかりか、工兵の訓練で宇治川上流へ遡航した際には、観光への悪影響を懸念する地元首長から宇治までこないよう申し入れられる有様であった)という陸軍側の切迫した訓練場用地事情による。この工兵大隊の演習場用地問題は、戦後帝国陸軍が解体されるまで遂に解決されなかった。
  4. ^ 後日設計者らが発表した論文によれば「本土に未だ類例を見ざる大橋梁架設の臍を固めたり」としており、奈良電気鉄道本社はこの時点で本橋梁が巨額の費用を要する未曾有の巨大橋梁となることを覚悟していた。
  5. ^ 長く橋梁設計の教科書として尊重された「標準橋梁仕様書」の著者であり、後には松尾鉄骨橋梁株式会社(後の松尾橋梁株式会社。現在のIHIインフラシステムの前身の一つ)の技師長に迎えられて参宮急行電鉄線の全橋梁設計に携わるなど、大正から昭和初期にかけて多くの橋梁設計を行った。
  6. ^ 後日発表された論文中では、当時の世相を反映し「我國3000年の光輝ある歴史に培はれたる大和民族の魂は我が社をして此の一大決心を敢てなさしめたり」と記されたものの、結局はアメリカの大手製鋼メーカーに主要部材の大半を求めざるを得なかった。同時期の鉄道省が蒸気機関車の台枠に用いる肉厚圧延鋼板の調達に難渋し、欧米の機関車(例えば、日本に輸入されたJ.A.マッファイ社製の4100形1912年製)やアメリカン・ロコモティブ社製の8200形1925年製)など)で用いられていた100mm厚圧延鋼板ではなく、より入手性の高い90mm厚圧延鋼板(それでさえ、1922年ワシントン海軍軍縮条約の締結に伴う八八艦隊計画の中止による余剰鋼材の有効活用、という形で初めて入手が可能となった)を使用するという妥協を強いられたことでも明らかなように、この時代の日本における製鉄事業者の製鋼能力は欧米、特にアメリカと比較して非常に貧弱であった。この状況は第二次世界大戦後の高度経済成長期まで続くこととなる。
  7. ^ 本橋梁の架設当時、その桁材の加工に適した50t級の大型クレーンを所有する民間工場は日本国内ではそれほど多くはなく、大型機関車の製造を行う大手鉄道車両メーカーや一部の造船所などに設置されている程度であった。また、神戸港へ着荷する鋼材の輸入・通関手続きと加工後の輸送(本橋梁の加工済み部材は船によって兵庫→大阪→淀川の順で遡航し、現場へ送り込まれている)に有利な立地にあり、しかも本橋梁架設当時、第一次世界大戦の終結に伴う船舶需要の激減と1927年の世界恐慌で打撃を受けた結果、経営多角化に乗り出して橋桁製作を事業の一つとしていた川崎造船所→川崎車輛の兵庫工場は、その条件を満たす数少ない工場の一つであった。なお、この兵庫工場は本橋梁と前後して永代橋清洲橋勝鬨橋(跳開橋部)と東京市の震災復興事業を象徴する隅田川の3橋梁の橋桁製作を実施するなどこの新分野での事業展開に積極的であったが、本業たる車両製作事業の繁忙から1937年末をもって橋桁製作から撤退した。
  8. ^ 1927年の恐慌の影響で、川崎造船所は運転資金調達のための融資を受ける際に、抵当権設定の必要から兵庫工場を中心とした別会社を設立する必要に迫られた。
  9. ^ 内務省大阪土木出張所淀川増補改修事務所長(当時)。
  10. ^ それどころか、工程に対する経験の不足から右岸側の橋台工事完成が予定より遅れ、橋桁下弦材組み立て工程に混乱が生じる状況であった。
  11. ^ 試験荷重によるテストは最終的に行われなかったが、完成後1年が経過しても沈下が起きていないことが確認されている。
  12. ^ 伏見第一高架橋および伏見第二高架橋。いずれも鉄筋コンクリート製砂利道床構造の高架橋で、当初は桃山御陵参拝道との平面交差を認めない京都府の指示に従い、京阪電気鉄道新京阪線の西院 - 京阪京都(現在の大宮)間と同様の設計で地下線を計画したが、酒造に用いる地下水の水脈が絶たれることを危惧した沿線酒造家の反対により高架線へ変更された。この一帯は工兵第16大隊の演習場もあったため、前述のとおり同演習場の一部と奈良鉄道時代の路線の名残である鉄道省奈良線の貨物支線と同線伏見駅(1928年9月3日廃止)の跡地の払い下げを受けて用地を確保の上で建設された。伏見第一高架橋は本橋梁直前でS字カーブを描いているが、これはこうした工法および用地確保の紆余曲折に由来する。
  13. ^ 上述の通り、奈良電気鉄道ではその社名に反して奈良側に自社ターミナルを設置せず、大和西大寺より大阪電気軌道線に乗り入れを実施した。そのため、同社奈良線および橿原線の乗り入れ区間で規定される建築限界に抵触しない車両限界に従う寸法での車両製造が求められ、車体長16,320mm、車体幅2,515mmと同時期に関西私鉄各社で計画あるいは製造されつつあった大型高速電車群より一回りあるいは二回り小さい寸法の車両を新造している。なお、最大幅は2,628mmで、生駒トンネルの小さな断面に制約された大阪電気軌道奈良・橿原両線の各形式(最大幅2,590mm)よりも若干大きな寸法が採用されている。
  14. ^ 国鉄では1909年にクーパー荷重E33を架橋時の標準列車荷重として設定し、更に『国有鉄道建設規定』によりクーパー荷重E40を標準と定め、一部の幹線では軌間の1,067mmから1,435mmへの改軌を前提にクーパー荷重E45も採用していたから、これは決して大きな値ではない。ただし、国鉄の採用していたクーパー荷重E40は、1両で100t前後と自重の極端に大きな蒸気機関車が重連運転を行うことを前提とした値であるため、そうした重量級機関車の運行を想定しない本橋梁と、それら国鉄標準桁は単純比較できない。
  15. ^ 本橋設計時に想定された1両あたり60.8t、軸重15.2t、車体長18.3m、心皿中心間隔15.9mという重量・寸法は、奈良電気鉄道の一方の親会社である京阪電気鉄道が、子会社である新京阪鉄道の全線開業に備えて製造を進めていたP-6形の初期グループ(公称自重41.66t、実測自重52t)や同じく京阪電気鉄道が建設に関与した阪和電気鉄道が製造しつつあったモタ300形(公称自重47.07t、メーカー実測自重53t)、あるいは本橋梁の完成後、もう一方の親会社である大阪電気軌道が自社とやはり子会社である参宮急行電鉄のために製造することになるデボ1400形(公称自重47.5t)およびデ2200形(新)(公称自重47.5t)といった戦前の日本を代表する最重量級電車の、それも電動車でさえ到達するのが難しい値である。なお、奈良電気鉄道が開業時に用意したデハボ1000形は自重34tである。
  16. ^ 竣工時との相違点は、橋梁の両端上部に掲げられていた橋梁名を記した扁額が喪われ、手すり付きの保守用通路が追加設置された程度で、橋桁の構造体については特に目立つ改造は施されていない。

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]