漢服復興運動

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漢服復興運動(かんふくふっこううんどう)とは、漢族の伝統的な服装である漢服を、公共の場で着用して広めようとする、近年の中国における文化運動である。

17世紀初頭、満州族が建国した清朝では、漢族は頭髪・衣服を満州族式(辮髪や旗装など)に改めることを強制(剃髮易服)され。清朝が崩壊すると復古運動に基づく漢服文化が広がり、土台そのものはできたものの、政治的な混乱や戦争、文化大革命による諸事情により、近年に至るまで比較的大きな運動が起きることはなかった。1980 - 1990年代になり、中国国内が安定化に向かうと、同時に漢族のナショナリズムも高揚し、その一環として漢服の復興運動が一部より提唱されるようになった。

背景[編集]

1644年に、清朝が明朝に代わって大陸を支配するようになり、剃髮易服を実行。清朝末期に中国における革命運動を進めていた孫文は、『驅除韃虜,恢復中華』(満州族を駆逐し、漢民族による国家を取り戻す)というスローガンを掲げて辛亥革命を進めた。この革命によって清朝が崩壊すると、『驅除韃虜』は民族共生というスローガンに代わり、『恢復中華』は、20世紀になると、時代遅れとされ、政治体制においては既に西洋的国家体制に取って代わられた。漢族の服装文化は、清朝が支配した1644年から1911年の長い期間において実質的に破壊され、清朝が崩壊したといえども漢服が再び定着することはなかった。中華民国成立後、漢族の間で主流となった服装は、男子は洋服、女子は満州族の旗裝を改良した旗袍(いわゆるチャイナドレス)であり、中華人民共和国政府成立後には、人民服が巷間にあふれた。

西洋の学者は"役人の他に漢族の平民は明の服を着された、しかし晚清まで大勢の漢人は自ら志愿して满洲の服を着った"と指し示す、清朝の子供や僧侶道士や婦女も明の服を着させた、剃髮易服を実行するのが難しいから、清の間にも大勢の人は明の服を着たことがある、康熙年間も江南の人明の服を着たことがたくさんある、そして辛亥革命の間ある区域明の服を保存した。[1][2][3]

  1. ^ 魏千志《明清史概論》,中國社會科學出版社,1998年,第358-360頁
  2. ^ Twitchett, Denis; Fairbank, John K. (2008) Cambridge History of China Volume 9 Part 1 The Ch'ing Empire to 1800, p87-88: "History The term "hanfu" means "dress of the Han people."... '(during Qing dynasty) Han resistance was so severe that the policies were modified. Men, government officials, Confucian scholars, and prostitutes wore the Manchu style; women, errand boys, children, monks, and Taoists were free to wear Han styles. '"
  3. ^ Edward J. M. Rhoads (2000). Manchus and Han: Ethnic Relations and Political Power in Late Qing and Early Republican China, 1861–1928. University of Washington Press. pp. 60–. ISBN 978-0-295-98040-9. https://books.google.com/books?id=QiM2pF5PDR8C&pg=PA60#v=onepage&q&f=false. ""However, the dress code was required only of the scholar-official elite and not of the entire male population. Therefore, the great majority of Han men were free to continue to dress as they had during the Ming.""