滝山寺
滝山寺 | |
---|---|
本堂(重要文化財) | |
所在地 | 愛知県岡崎市滝町山籠107 |
位置 |
北緯34度59分17.37秒 東経137度12分20.26秒座標: 北緯34度59分17.37秒 東経137度12分20.26秒 |
山号 | 吉祥陀羅尼山 |
院号 | 薬樹王院 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 薬師如来 |
創建年 | 伝・天武天皇時代(673年 - 686年) |
開基 | 伝・役小角 |
正式名 | 吉祥陀羅尼山藥樹王院瀧山寺 |
文化財 | 本堂、三門、木造観音菩薩立像及梵天・帝釈天立像(重要文化財) |
地図 | |
法人番号 | 5180305000359 |
滝山寺(たきさんじ)は、愛知県岡崎市滝町にある天台宗の寺院。山号は吉祥陀羅尼山。院号は薬樹王院。滝山寺鬼まつりで有名。
滝山東照宮が隣接している。
目次
歴史[編集]
『滝山寺縁起』(現存するものは近世の写本)によれば、 奈良時代、 天武天皇の命で役行者(役小角)が青木川で拾った金色の薬師如来像を祀る吉祥寺として創建したとされる。その後、寺は放棄され荒寺となる。役小角は、奈良時代の伝説的な山岳修行者である。役行者草創の伝承をもつ寺院は日本各地にあり、その多くは山岳信仰、水源信仰に関わる山寺である。本寺もそうした山岳信仰の場であったと考えられる。
保安年間(1120年 - 1123年) 天台宗の仏泉上人永救(えいぐ)が物部氏の保護を受けて本堂を建てるなどして再興し、次いで熱田神宮大宮司藤原南家の保護を受けていたという。この12世紀の僧永救の再興により、山岳信仰の場であった吉祥寺が、寺院としての形態を整えたものと思われる。永救は加賀出身で比叡山で修業したのち、布教のため三河の地に渡った。
平安時代末期から鎌倉時代初期の住職であった寛伝(1142年-1205年)は、熱田大宮司藤原季範の孫で、将軍源頼朝の従兄弟であったため、頼朝による大伽藍の造立がなされるなど、鎌倉幕府の庇護を受けた。また寺に伝わる観音菩薩及び両脇侍像は、頼朝の三回忌にあたる正治3年(1201年)、寛伝が頼朝追善のため仏師運慶・湛慶父子に作らせたものといい、様式的にも運慶一派の作と考えられている。寛伝は足利氏宗家初代当主足利義康の義兄弟でもあり、足利氏本拠地である下野の満願寺住職を経て、滝山寺住職となった。
その後、藤原季範の子孫にあたる三河守護足利氏の保護を受けた。12世紀に三河国司藤原憲長と滝山寺の間で、阿知和郷の帰属が争われたが、熱田大宮司の藤原範忠により、滝山寺領として定められた。歴代この地の有力者に庇護され、他にも、滝村、米河内村などを寺領とし、鎌倉時代に412石を得ていた。貞応元年(1222年)、足利家3代目当主足利義氏が本堂を造立[1]。
南北朝時代には 足利尊氏の庇護を受け、重要文化財の本堂が作られた。しかし、臨済宗を重視する室町幕府の方針の影響などで、やがて滝山寺の勢力は衰え、戦国時代に寺領は諸勢力に侵された[2]。
近世初期には 徳川家康の庇護を受け、412石を得て復興。徳川幕府3代将軍徳川家光の治世に寛永寺を創設した天海の弟子亮盛が寛永寺の子院であった青龍院住職と兼務する形で、滝山寺住職を務め、以降滝山寺の勢力が増した。正保3年(1646年)10月18日、徳川家光の命により、岡崎城鬼門にあたる滝山寺境内に滝山東照宮が創建され[3]、200石の加増を受けた。
明治維新後は、石高がなくなり、滝山東照宮も独立するなど、規模が小さくなった。歴代住職の墓は弘願寺の裏に置かれている[4][5]。
近年[編集]
『芸術新潮』2009年1月号の特集で滝山寺所蔵の観音菩薩立像・梵天立像・帝釈天立像が紹介されたことから、運慶の作がある寺として広い範囲で知られるようになった[5]。三体は境内の宝物殿(年中無休、拝観料300円)に置かれてある[6]。
2017年9月26日から11月26日にかけて東京国立博物館で特別展「運慶」が開催された。この特別展に展示するために観音菩薩立像が初めて寺の外に持ち出された[7]。移動に耐えられるよう、公益財団法人美術院が彩色の剥落止めなど、様々な修復を施した。取り外していた銅製の装身具も取り付けられた[8]。
2018年4月、朝鮮通信使の書とみられる扁額(へんがく)が、NPO法人朝鮮通信使縁地連絡協議会の会員の指摘により本坊で発見された。通信使の扁額が県内で見つかったのは数十年ぶりで、同市の広忠寺、稲沢市の禅源寺に次いで3例目。1682年(天和2年)の第七次の通信使で写字官だった李三錫の書号が彫り込まれている[9]。
文化財[編集]
重要文化財(国指定)[編集]
- 本堂[10] - 室町時代前期の建立。寄棟造、檜皮葺き。
- 三門[11] - 室町時代前期の建立。入母屋造楼門、杮(こけら)葺き。
- 木造観音菩薩立像及び梵天・帝釈天立像[12] - 収蔵庫に安置。像高は観音像174.4cm、梵天像106.5cm、帝釈天像104.9cm。観音像は胸前に両手で蓮茎を捧持する。梵天像は四面四臂像。帝釈天像は右手に独鈷杵(とっこしょ)を持つ。各像の表面の彩色は後世のものである。帝釈天像は金色で、観音像と梵天像は肌色である。像の脇侍に梵天・帝釈天を配するのは、宮中清涼殿に安置されていた「二間観音」と同様の構成である。これらの像は、寺の縁起によれば、鎌倉時代の僧・寛伝が、母方の従弟にあたる源頼朝の追善のため、仏師運慶・湛慶父子に作らせ、頼朝の三回忌にあたる正治3年(1201年)に完成、像内に頼朝の鬚(あごひげ)と歯を納入したという。X線撮影の結果、観音像の像内、口の辺に人間の歯らしきものが固定されているのが確認されている。この三尊像は、近世の彩色で覆われているが作風等から伝承どおり運慶一派の作と認められている。[13]
愛知県指定有形文化財[編集]
岡崎市指定有形文化財[編集]
- 木造仁王像[18]
- 木造十一面観音菩薩立像[18]
- 木造慈恵大師坐像[18]
- 木造日光・月光菩薩立像[18]
- 木造十二神将立像[18]
- 木造天台大師坐像[18]
- 木造不動明王坐像[18]
- 木造弁財天坐像[18]
- 蒔絵曲彔[18]
- 鞍[18]
- 高階惟行・坂上惟伴連署田地寄進状[18]
滝山寺鬼まつり[編集]
交通アクセス[編集]
参考文献[編集]
- 『新編 岡崎市史 中世』1989年
- 『愛知県史 別編 文化財3 彫刻』2013年
- 『愛知県史 通史編2 中世1』2018年
- 服部光真「『瀧山寺縁起』と中世の地域社会」『年報中世史研究』38、2013年
- 松島周一『鎌倉時代の足利氏と三河』(同成社中世史選書21)2016年
- 平雅行「熱田大宮司家の寛伝僧都と源頼朝ー瀧山寺・日光山・高野大鐘ー」『人間文化研究』38、2017年
脚注[編集]
- ^ “岡崎市歴史的風致維持向上計画 - 第1章 岡崎市の歴史的風致形成の背景 (PDF)”. 岡崎市役所. 2018年4月21日閲覧。
- ^ 「阿知和郷(中世)」角川地名大辞典(旧地名)
- ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』 新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、231-232頁。
- ^ 「瀧山寺歴」瀧山寺
- ^ a b "山田亮盛". “瀧山寺の文化財について (PDF)”. 岡崎大学懇話会. 2018年4月21日閲覧。
- ^ 瀧山寺(滝山寺)岡崎市・天台宗吉祥陀羅尼山薬樹王院 | 三尊立像
- ^ 小滝ちひろ (2017年4月21日). “運慶の傑作22体、一堂に 9月から東京で特別展”. 朝日新聞 2018年4月21日閲覧。
- ^ “聖観音菩薩立像、東京で公開”. 朝日新聞. (2017年9月13日) 2018年4月21日閲覧。
- ^ 森田真奈子 (2018年4月18日). “朝鮮通信使の扁額、岡崎の寺で見つかる 県内3例目”. 中日新聞 2018年4月21日閲覧。
- ^ “瀧山寺本堂”. 愛知県. 2013年5月31日閲覧。
- ^ “瀧山寺三門”. 愛知県. 2013年5月31日閲覧。
- ^ “木造観音菩薩・梵天・帝釈天立像”. 愛知県. 2013年5月31日閲覧。
- ^ 本像の説明は以下の資料に基づく。
- 「新指定の文化財」『月刊文化財』213号、第一法規、1981
- 京都国立博物館・東京国立博物館編『最澄と天台の国宝』(特別展図録)、2005、p333(解説は浅見龍介)
- ^ “木造狛犬”. 愛知県. 2013年5月31日閲覧。
- ^ “錫杖”. 愛知県. 2013年5月31日閲覧。
- ^ “孔雀文磬”. 愛知県. 2013年5月31日閲覧。
- ^ “木造菩薩面”. 愛知県. 2013年5月31日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “岡崎市指定文化財目録”. 岡崎市. 2013年5月31日閲覧。
外部リンク[編集]
|