源明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search

源 明 (みなもと の あきら、弘仁5年(814年[1] - 仁寿2年12月20日853年2月1日))は、平安時代初期の公卿嵯峨天皇皇子嵯峨第五源氏)。官位正四位下参議横川宰相入道と号す。出家後の法名素然

経歴[編集]

淳和朝末の天長9年(832年)に无位から従四位上直叙され、大学頭に任ぜられる。

仁明朝でも大学頭を務める一方で、承和5年(838年加賀守、承和6年(839年近江守、承和9年(842年播磨守と地方官を兼ね、同年左京大夫に遷る。この間の承和7年(840年淳和天皇崩御の際に山作司を務めている。承和13年(846年正四位下刑部卿に叙任されたのち、承和14年(847年越中守嘉祥元年(848年阿波守を兼ね、嘉祥2年(849年参議に任ぜられ公卿に列した。

嘉祥3年(850年)3月に兄・仁明天皇崩御すると、同年12月に出家して法名素然を名乗る。出家後は横川に住んだことから、横川宰相入道と呼ばれた。仁寿2年12月20日(853年2月)に横川で卒去享年40。

人物[編集]

明朗である一方、理解が早く賢かった。父・嵯峨天皇皇子達に才学があることを望んだが、明に優れた才能があることを知って、により対策に挑ませたという。初め勅に従い勉学に励み、諸子百家をほぼ閲覧し終える程であった。しかし、嵯峨上皇が崩御した後に、愛慕して恨み、誰のためにこんな事をしているのか、と言って学業を止めてしまった。のちに、仏道帰依して俗世間を遠く離れ、遂に出家して山中で没した。人々はその節操を気高いとして、心に感じ慕ったという。[2]

官歴[編集]

六国史』による。

系譜[編集]

注記のないものは『尊卑分脈』による。

脚注[編集]

  1. ^ 公卿補任』の享年90に従うと763年生となるが年代的に合わない。
  2. ^ 日本文徳天皇実録』仁寿2年12月20日条
  3. ^ a b 『公卿補任』
  4. ^ 鈴木真年『百家系図稿』巻6,飯高朝臣

参考文献[編集]