渡辺茂夫
| 渡辺 茂夫 | |
|---|---|
| 出生名 | 鈴木 茂夫 |
| 生誕 |
1941年6月26日 |
| 出身地 |
|
| 死没 | 1999年8月13日(58歳没) |
| 学歴 | ジュリアード音楽院 |
| ジャンル | クラシック音楽 |
| 職業 | ヴァイオリニスト |
| 担当楽器 | ヴァイオリン |
| 活動期間 | 1948年 - 1957年 |
渡辺 茂夫(わたなべ しげお、1941年〈昭和16年〉6月26日 - 1999年〈平成11年〉8月13日)は少年時代に戦後復興期の日本で活躍したヴァイオリニスト。いわゆる伝説的な音楽的神童のひとり。
略歴
[編集]生い立ち
[編集]東京生まれ。生家の鈴木家は音楽家一家で、生母の鈴木満枝はヴァイオリニストだった。4歳より、母方の叔父[注釈 1]の渡辺季彦 (1909年 - 2012年6月10日[1]) が経営する音楽教室『渡辺ヴァイオリン・スタジオ』でヴァイオリンを学び始める。その翌年、両親の離婚にともない、そのまま季彦夫妻の養子となった。
天才少年の誕生
[編集]1948年(7歳)に芝白金小学校に入学。この年に早くも巖本真理より音楽的才能を絶賛され、12月に最初のリサイタルを、翌年以降も毎年1回の定例コンサートを行う。1949年には渡辺邦男監督の映画『異国の丘』にヴァイオリンを弾く少年役として出演している。創作面にも早くから関心を示し、音楽理論を石桁真礼生に師事しながら作曲活動や詩作にも着手し、小学校の最終年次にヴァイオリン協奏曲、オペラ、ヴァイオリン・ソナタを作曲[2]。その作品はクラウス・プリングスハイムに高く評価された。
渡米
[編集]1954年(13歳)に暁星中学校に進学。来日したダヴィッド・オイストラフを訪ねて演奏を行う。5月、養父季彦の奔走により、帝国ホテルで来日中のヤッシャ・ハイフェッツに面会し、演奏を披露、ハイフェッツに深い感銘を与え「百年に一人の天才[要検証]」と評される[2]。6月にハイフェッツからの招待を得て、両親に促されて渡米が決まる。同年10月1日、イギリスの名指揮者マルコム・サージェントの指揮により、東京交響楽団とチャイコフスキーの協奏曲を演奏[3]。
1955年3月、ジュリアード音楽院院長より、「ハイフェッツ氏の熱心な推薦により」無試験入学が許可される。アメリカ軍属、朝日新聞社、その他の個人といった各方面の支援者から経済的援助を受け、期限は2年間、演奏旅行には連れ出さないとの条件により、7月に14歳で飛行機にて渡米。
輝かしい未来
[編集]カリフォルニア州で語学研修を受けるかたわら、奨学金を得て地元の夏季音楽講習会にも参加する。早くも天才ぶりと品のよい物腰から脚光を浴び、とりわけハンガリー人ピアニストのジェルジ・シャンドールに目をかけられた。8月末にはモーリス・アブラヴァネルの指揮でベートーヴェンの協奏曲を演奏して、サンタバーバラ市の地元紙で絶賛される。講習会の告別演奏会にも出席して、自作のヴァイオリン・ソナタを披露する。9月にニューヨークに到着し、ジュリアード音楽院でペルシャ出身のヴァイオリニストであるイワン・ガラミアン(アイヴァン・ガラミアン)に師事することが決定。日系人の家庭にホームステイを始めるが、後にガラミアン宅に同居する。
最後の栄光
[編集]1956年(15歳)からニューリンカーンのハイスクールに通学。この頃から日本への連絡が途絶えがちになる(一説には、日本や日本語に対する嫌悪感があらわれたと言われる)。職業音楽家を集めたプライベートの演奏会で、ハイフェッツの伴奏者として知られるエマヌエル・ベイのピアノ伴奏により、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ、ヴィエニャエフスキの≪協奏曲 第1番≫を演奏。出席者には、レナード・バーンスタイン、ピアティゴルスキー、レナード・ローズらの顔ぶれがあり、ハイフェッツのお気に入りの指揮者アルフレッド・ウォーレンスタインからは、世界一の演奏家になるとのお墨付きを得た。新学期の9月には、ジュリアード音楽院で史上最年少の奨学生に選ばれ、さらに半額と規定されていた奨学金も全額支給される。秋にガラミアン教授宅を出て、ホームステイ先を変更。すでにガラミアンとそりが合わなくなっていた。
青春の終わり・悲劇の幕切れ
[編集]1957年2月、情緒不安定を訴え精神科に通院。春にふたたびホームステイ先を変更する。4月より助手としてジュリアード音楽院に残り、研究のかたわら治療を続ける。夏のヴァカンスでカリフォルニア州に行き、恩人ハイフェッツを訪ね、激賞された。9月にジュリアード音楽院に再入学するが、乏しい報酬と心もとない支援金により耐久生活を余儀なくされており、劣悪な住環境しか見つからなかった(身元引受先のジャパン・ソサエティーによる配給額が適切でなかったためとされる)。
異国の地で人間嫌いと疎外感がつのるようになり、自殺願望をほのめかすようにもなると、両親は茂夫の急変を察知。ジャパン・ソサエティに緊急帰国を要請するも、同協会は茂夫の治療優先の方針を崩さなかった。ついに11月2日、茂夫は未成年が購入禁止とされているはずの睡眠薬を大量に服用する。11月5日に日本の家族に危篤を告げる電報が届いた。一命はとりとめたものの、不幸にも脳障害が残り、回復する見込みはなかった。翌年1月、家族の要請により日本に送還され、その後四十年以上に渡って養父母の下で在宅療養を続けた。
自殺の原因について
[編集]米国のマスコミは失恋による自死を報じた。その一方養父の季彦は自殺説を頑なに否定している[4]。1957年にニューヨークのロックランド病院勤務の精神科医として茂夫を診察した竹友安彦[注釈 2]は、彼が会話中に突然、竹友が"suicide"(自殺)を「シーサイド」と発音したのは間違いで「スィーサイド」が正しいと言い出して頑として譲らなかった[注釈 3]ことに強い印象を覚え、茂夫が20歳以上年上の上位者(authority)に敬意を示すという基本的な人間関係の作法を心得ておらず、こういったコミュニケーション能力の欠如が異文化の米国において周囲の人間との意思の疎通に支障をきたした遠因になっていたのでは、と解釈している[4]。
再評価と死去
[編集]1988年、季彦の門下生など関係者の尽力によって、かつての茂夫の演奏・肉声を収録したCD3枚組が自主制作・頒布された。そして1996年、前述のCDを2枚組にまとめた『神童 <幻のヴァイオリニスト>』[5]が東芝EMIから発売された。これが大きな反響を呼び、「驚きももの木20世紀」など複数のドキュメンタリー番組が制作され、その悲劇的な人生と放送当時の姿[注釈 4]が紹介された。同年にはCD第二弾が発売されている。
1999年8月13日に急性呼吸不全により58歳で永眠した。死後も茂夫に関係するCDがいくつか発売されている。
2009年、茂夫の遺品バイオリン2丁と楽譜など約300点が日本近代音楽館に季彦から寄贈された[2]。
演奏の特徴
[編集]ヴァイオリン教師である季彦は、茂夫の演奏はガラミアンにつく前にすでにある程度の完成の域に入っていた、と言う。茂夫はレオポルド・アウアーの奏法を基本として技術的にも優れた才を示していたにもかかわらず、ガラミアンがそれに理解を示さずに独自の厳しい指導でもって茂夫の奏法を自分のそれに転換させようとした重圧に苦しみ続けたといえる。季彦は、カール・フレッシュの理論書やアウアーの著作をひも解きながら、独自のメソッドを編み出しており、小野アンナと同様、早期教育の重要性を説いていた。季彦の門下生の多くが国内の各地や海外で、ソリストや楽団員として活動している。近ごろ話題を呼んだ「もうひとりの渡辺茂夫」こと栗原幸信少年も、季彦の門下生である。
ディスコグラフィ
[編集]- 神童 <幻のヴァイオリニスト>[5] (東芝EMI / 1996年7月24日)
- 続・神童 (東芝EMI / 1996年11月20日)
- 世紀の巨匠ジャパン・ライブ・シリーズ: マルコム・サージェント[3] (東芝EMI / 1996年2月21日)
- ※渡辺茂夫の演奏は2曲目のチャイコフスキー作曲『ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.35』のみ
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 母満枝の姉の夫にあたる。
- ^ 精神医学者。後にアルベルト・アインシュタイン医科大学精神医学臨床名誉教授。故人。
- ^ 竹友は驚いて、自分はスィーサイドと発音したと言ったが、茂夫は「いや、先生は確かにシーサイドと言った。先生は間違っている」と自分の主張を曲げなかったという。
- ^ 養母亡き後、季彦と二人暮らしを続けていた。会話できず、身の回りのこと全てに季彦の介護が必要だった。