清閑亭

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清閑亭
161223 Seikantei Odawara Japan08n.jpg
所在地 神奈川県小田原市南町一丁目5-73
位置 北緯35度14分53.702秒
東経139度9分8.975秒
形式・構造 木造・一部二階建て、数寄屋造り(雁行型)
建築年 1906年明治39年)
文化財 国の登録有形文化財
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清閑亭(せいかんてい)は、神奈川県小田原市にある歴史的建造物。1906年明治39年)に神奈川県足柄下郡小田原町(現:神奈川県小田原市南町)に建てられた政治家侯爵黒田長成別邸である。

概要[編集]

小田原城三の丸外郭土塁の南向き傾斜地に立地。現在、敷地が国の史跡(小田原城跡の一部)、母屋が国の登録有形文化財となり保全・公開されている。

母屋は数寄屋造りの平家・二階家が雁行に連なる。平家部分は造営当初のものとされ関東大震災をくぐりぬけた貴重な建築である。また板絵襖や欄間、網代組天井などの意匠も優れ、NHK制作『美の壺』でとりあげられた。

母屋は真鶴半島大島を望む相模湾箱根山の景勝に恵まれるほか、よく保存された旧小田原城三の丸外郭土塁を確認することができる。現在土塁上に残される庭園は松を主体とする芝庭で、松林が連なる海と山を借景として巧みにとりこんだものである。

毎年、黒田長成侯爵の命日である8月14日に、侯爵をしのぶ『桜谷忌』が催されている。

経緯[編集]

内観、1階の客間
中庭

明治期の小田原には相模湾沿いの海岸地域を中心に、1890年(明治23年)の伊藤博文による「滄浪閣」をはじめ政財界人の別荘群が形成されていた。1901年(明治34年)には小田原城内に御用邸が完成し皇室関係者も小田原に居住するようになった。しかし、1902年(明治35年)の小田原大海嘯により海岸沿いの別荘が大打撃を受けた。

その後は清閑亭のように海を臨む高台に別荘群が形成された。高台は箱根山系からのびる尾根の先端(天神山)にあたり、いずれも旧小田原城三の丸外郭・大外郭として用いられていた場所である。当時の主な別荘所有者としては東から順に黒田長成山下亀三郎大田黒重五郎瓜生外吉閑院宮載仁親王益田孝山縣有朋清浦奎吾大倉喜八郎などが挙げられる[1]

黒田長成は1906年(明治39年)当時、貴族院副議長をつとめ、1903年(明治33年)まで同議長であった近衛篤麿と密接な関係にあった[2]。近衛は学習院小田原移転計画を主導しており、細川潤次郎など学習院関係者でこの頃小田原に別荘をかまえる者が少なくなく、黒田もそのような人的関係から小田原別邸をかまえたものとされる。

特に同時期に隣接して別荘をかまえた閑院宮載仁親王家とは交遊が深く、1914年(大正3年)には黒田長礼(長成長男)と閑院宮茂子女王(載仁次女)との婚儀が整えられた。

1924年(大正13年)枢密顧問官任命後は小田原別邸で過ごす時間が長くなり、周辺地に材をとった多くの漢詩を残している[3]

現状[編集]

1939年(昭和14年)黒田長成薨去の後、1941年(昭和16年)には浅野侯爵家に譲られ、戦後東京国立博物館館長・浅野長武の自宅として使用された。この浅野家時代に敷地の過半が分譲され、小田原城三の丸外郭の水堀を利用した庭園や広大な梅林が失われた。その後1963年(昭和38年)には第一生命保険社が購入、管理職以上の保養所として使用された。

2005年(平成17年)に母屋が登録有形文化財に登録、2008年(平成19年)に敷地・建物を小田原市が取得、2010年(平成22年)から小田原邸園交流館・清閑亭として一般公開されている。なお山縣有朋小田原別邸・古稀庵で使用されていた長卓が篤志家により寄贈、一般に利用されている。

交通アクセス[編集]

参考文献・資料[編集]

  1. ^ 小田原市『小田原市史 通史編 近現代』小田原市、2001年、小田原まちづくり応援団『小田原まちあるき指南帖 邸園めぐり篇』2011年。
  2. ^ 近衛篤麿日記』1896年10月4日、1897年2月24日、1901年6月5日、1902年12月1日他の条。
  3. ^ 黒田長成『桜谷二集』1925年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度14分53.7秒 東経139度9分9秒 / 北緯35.248250度 東経139.15250度 / 35.248250; 139.15250