清瀬三郎

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きよせ さぶろう
清瀬 三郎
生誕 (1902-01-05) 1902年1月5日
兵庫県
死没 (1989-12-15) 1989年12月15日(87歳没)
国籍 日本の旗 日本
民族 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学法学部
職業 弁護士
親戚 清瀬一郎(兄)
清瀬信次郎(甥)
清瀬義三郎則府(甥)
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清瀬 三郎(きよせ さぶろう、1902年(明治35年)1月5日 - 1989年(平成元年)12月15日)は昭和時代の日本の民事専門の弁護士、スポーツ指導者。

来歴・人物[編集]

兵庫県出身。旧制神戸二中卒。東京帝大卒。ラグビーの選手であった。1946年(昭和21年)日本体育協会理事長に就任し、国民体育大会の生みの親となる。スポーツの国民大衆化を目指した。全日本軟式野球連盟日本ラグビーフットボール協会日本軟式庭球連盟などの役員を歴任。

国家公安委員[1]東京女子短大学長も務めた。

略歴[編集]

家族[編集]

大正、昭和時代の日本の弁護士

脚注[編集]

  1. ^ 参議院議院運営委員会. 第002回国会. Vol. 17. 26 February 1948. 本日内閣總理大臣から參議院議長に宛てまして、警察法第五條第二項の規定に基き國家公安委員の任命に關する參議院の同意を求めて參りました。公安委員は五人でございまして、...清瀬三郎君...これらの五名を本日の本會議において承認を與えることについての議院運營委員會の御意向を決めて頂きたいのであります。

参考文献[編集]

  • 『大学軟式野球三十年史』(全日本大学軟式野球連盟、1979年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]