清水真澄 (都市計画家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

清水 真澄(しみず ますみ、1885年 - 1954年[1])は、高知県土佐郡河内街北門筋(現在の高知市永国寺町)出身で高知市役所に勤務した行政職員。

昭和初期から戦後復興期まで高知市役所で、高知市の都市計画、土木工事に対し都市計画創成期から戦後復興期まで20数年間携わった人物[2]。高知市の土木部長や建設局長を務め、昭和の百々越前と呼ばれた。そして日本最初の沈下橋とされる柳原沈下橋の架橋を推進[3]

経歴[編集]

戦前[編集]

高知県立海南中学校を卒業して高知大林区署に勤務。4年後高知県庁に移り、土木課配属。高知公園の整備と五台山公園設立に携わり、技術を体得。1919年の都市計画法公布後、高知市にも都市計画調査委員会が設置された。以降適用指定で行政を進めるため、1924年1月に高知市土木課長に就任。市内の上下水道網整備、河川改修、橋梁架橋や総合運動場設置立案着工に辣腕を振るう。1941年8月に収入役、1942年5月に企画部長になるが、1943年に依願免職し、戦時体制下の民間軍需工場に勤務。

戦後[編集]

戦争で焼け野原になった高知の町の復興のため、終戦後の1945年8月27日付で高知市に復職。建設局長として高知市の戦災復興都市計画に着手し[4]、翌年1946年12月に起きた南海大地震による震災復興も併せて担当[5]。市街中央部を通る50メートル道路・電車通りの計画時には、片側4車線広復員道路にする復興都市計画を立案。現在の高知の街の姿をつくる。当時は広すぎると議会の大反対にあい、現在の片側3車線の幅に縮小。付設時では自宅に投石されるほどの反発をくらい、復興計画の激務で高血圧症を発症した。1949年に療養のため退職した。

脚注[編集]

  1. ^ Web NDL Authorities
  2. ^ 三神厚, 「過去の南海地震による高知市の堤防被害 (PDF) 」『歴史地震』 2014年 29号 p.1-10,地図巻頭1枚, 歴史地震研究会
  3. ^ 244沈下橋第一号-高知市広報「あかるいまち」2004年8月号
  4. ^ 浅野純一郎, 「地方都市の戦災復興都市計画における当初計画理念の成立と戦前・戦中都市計画との関係性について」『日本建築学会計画系論文集』 2012年 77巻 671号 p.27-36, doi:10.3130/aija.77.27
  5. ^ 三神厚, 辻野典子, 齊藤剛彦, 「昭和南海地震による高知市の河川堤防被害と被害要因の再評価」『土木学会論文集A1(構造・地震工学)』 2013年 69巻 4号 p.I_1034-I_1048, doi:10.2208/jscejseee.69.I_1034

参考文献[編集]

  • 『都市計画』1989年8月(City planning review. 38(3)(159)、日本都市計画学会 編)
  • 平尾道雄(1975年10月)『清水真澄伝』