清原良賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
清原 良賢
時代 南北朝 - 室町時代
生誕 貞和4年(1348年[1]
死没 永享4年10月29日1432年11月30日[2]
改名 文翁・常宗(法名)[3]
主君 後円融天皇後小松天皇称光天皇・後小松院→後花園天皇・後小松院、足利義満足利義持足利義教
氏族 清原氏
父母 清原宗季、丹波行定女[4]
清原頼季清原宗業河越頼兼 [5]
テンプレートを表示

清原 良賢(きよはら の よしかた[注釈 1])は、南北朝時代から室町時代にかけての公家儒学者。後円融天皇の代から後小松上皇の代まで北朝天皇家の侍読を務めた[6][注釈 2]。また室町幕府へも、3代将軍の足利義満の時代から6代将軍義教の治世期まで出仕しており、当代きっての学者として公武にわたり名声を馳せた[7][8]

経歴[編集]

明経道の家であった清原氏の嫡流に生まれる。幼少期から10代の間は祖父良兼や父宗季から漢籍を学んだ[6]。20代の後半に入ると、後円融天皇に『尚書』や『礼記』などを進講し、以後北朝天皇家の侍読を務めるようになった[6]。若年期から学者としての評判は高く、摂関家近衛道嗣などは数度も良賢を召して『論語』や『礼記』の講読を受けたり、良賢に対して庇護を与えたりしている[6]永徳3年(1383年)4月16日には、父宗季が死去したため家督を継いだ[3]

永和年間(1375年 - 1379年)には足利義満の漢籍師範となっている[9]康暦2年(1380年)6月、義満の読書始の際には侍読役を務め、その後も継続して義満の許で講釈や文談をおこなった[9]。永徳元年(1381年)には、義満の家司に任じられた[9][注釈 3]応永4年(1397年)に50歳で出家し、常宗と号した[11]。この時、家督を子の頼季に譲ったとされる[12]

また、応永3年10月に義満息の義持(当時11歳)が読書始を行った際にも、良賢が侍読を務めた[13][14]。当初、侍読役は紀伝道東坊城秀長が務めるかと思われていたが、義満の命により良賢が務めることとなった[14]。良賢は義満が没した後も、応永27年末まで将軍家への参仕を続けた[15]。良賢の存在は4代将軍足利義持の政治思想に影響を与えたとも指摘されている[16]。また、漢籍講読以外の役割として、将軍家と伏見宮家との間の申次などを務めていた[15]

正長元年(1428年)の正月に義持が死去し、青蓮院義円(後に義宣、義教と改名)が将軍家の家督を継承した。義円の還俗は種々の課題を引き起こしたが、この時良賢は長年幕府に仕えた学者として頼りにされ、幕閣からの諮問を受けている(後述)。これは当時、御用学者として、良賢の意見がいかに幕府から信任されていたかを物語っている[17][7]。また義円は、義宣・義教と名を変更したが、この両方の名前の決定に際しても良賢の意見が求められた[18]

永享4年(1432年)10月に85歳で死去[19]文安元年(1444年)の十三回忌の際に、三朝侍読の功績から従三位が追贈された[20][19]。この従三位追贈は明経道では初めてのことであった[20]。生前の官歴としては、博士・大外記少納言主水正・主税頭を経て大膳大夫正四位下に至っている[19]

学者としての活動[編集]

清原氏は明経道を家学とする一族であり、同じく明経道を家学とした中原氏と同じく、家説の進講や伝授、家の点本の校合や伝授を行っていた[20]。その中で良賢は、必ずしも伝統的な家説や古注に従わず、新注や新義を進講するなどし、義満に評価された[21]。14世紀の中頃まで、明経家は中原氏が優勢であったが、良賢を契機として、その後は清原氏の勢力が影響力を増していった[21]。また、良賢は有職故実家として、公家からの相談やからの諮問も受けており、応永末年には有職家の中でも最高の権威となっていたと指摘されている[22]

また、正長元年、足利義教が将軍家家督を継承した時には、義教の還俗と俗官が問題になっており[7]、学者として良賢は管領畠山満家から意見を尋ねられている。さらに、この時義教は、将軍宣下が行われる前から御判御教書をもって政務を開始しようとしていた。このことについて、良賢は「征夷大将軍に任命される以前から天下を判断することを問題なしとするならば、将軍でなくても誰でも権威や実力で政務を執ることを容認することになってしまうではないか」と反対した[注釈 4]。この良賢の意見を受け、御判御教書の発給が延期されることとなった(代わりに管領下知状が用いられた)[8]。当代きっての知識人であった良賢の発言とその後の幕府の対応は、当時の幕府にとって天皇制が不可欠なものであったことを示す事例として、日本中世史研究においても注目されている[7]

系譜[編集]

  • 父:清原宗季
  • 母:丹波行定女
  • 妻:不詳
    • 男子:清原頼季
    • 男子:清原宗業

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 名前の読みについては、芳賀幸四郎「清原良賢」『国史大辞典 第4巻(き‐く)』吉川弘文館、1983年を参照
  2. ^ 後年の史料では後光厳院の侍読も務めていたとの記述もある[6]
  3. ^ 当時、義満の家司は希望者が多く諸家競望の的であった。良賢は希望をしていなかったにもかかわらず、義満の指名により任じられた[10]
  4. ^ 『建内記』五月十四日条、解釈については佐藤(1990),pp. 245-246、桜井(2009),p. 126を参照

出典[編集]

  1. ^ 落合(2006),p.113
  2. ^ 落合(2006),p.125
  3. ^ a b 足利(1932),p. 195
  4. ^ 落合(2006),p.114
  5. ^ 三上景文『地下家伝 第1-7 (日本古典全集 ; 第6期)[1]』(日本古典全集刊行会、1937年)
  6. ^ a b c d e 落合(2006),p.114
  7. ^ a b c d 佐藤(1990),pp. 244-246
  8. ^ a b 桜井(2009),p. 126
  9. ^ a b c 落合(2006),p.115
  10. ^ 小川剛生『足利義満』中央公論新社、2012年、79頁
  11. ^ 和田(1977),p. 116
  12. ^ 落合(2006),p.117
  13. ^ 落合(2006),p.117
  14. ^ a b 吉田(2017),p. 24
  15. ^ a b 落合(2006),p.119
  16. ^ 吉田(2017),p. 225
  17. ^ 落合(2006),pp.1 23-124
  18. ^ 落合(2006),pp.123-124
  19. ^ a b c 和島(1977),p. 116
  20. ^ a b c 和島(1962),p. 193
  21. ^ a b 和島(1962),pp. 191-193
  22. ^ 落合(2006),p.120

参考文献[編集]

  • 足利衍述『鎌倉室町時代之儒教』、日本古典全集刊行会、1932年
  • 落合博志「清原良賢伝攷 南北朝末室町初期における一鴻儒の事蹟」久留島典子・榎原雅治編『展望日本歴史11 室町の社会』東京堂出版、2006年、
  • 桜井英治『室町人の精神』講談社、2009年
  • 佐藤進一「足利義教嗣立期の幕府政治」『日本中世史論集』岩波書店、1990年
  • 吉田賢司『ミネルヴァ日本評伝選 足利義持-累葉の武将を継ぎ、一朝の重臣たり-』ミネルヴァ書房、2017年
  • 和島芳男『日本宋学史の研究』吉川弘文館、1962年
  • 和島芳男「義堂周信と清原良賢-清家学成立の契機-」『大手前女子大学論集』第11号、大手前女子大学、1977年。