深堀事件
深堀事件(ふかほりじけん)は、元禄13年12月19日(1701年1月16日)から12月20日(同1月17日)にかけて起こった、肥前国天領長崎(現・長崎県長崎市)において長崎会所の役人と佐賀藩深堀領の武士(家老格深堀鍋島家の家中のこと)の間に起こった騒動。これにより双方に死者を出す騒ぎになった。別名「深堀騒動」(長崎側から)、「長崎喧嘩」「大音寺坂事件」とも。
この事件の起きた背景には、香焼瀬戸を通る長崎入港の貿易船から礼物を徴収する慣例があったが、長崎町人によってこの慣行を侵すなんらかの事態があったためとも言われている[1]。
事件の経過[編集]
発端[編集]
事件は12月19日、長崎・本博多町(現在の万才町の一部分)にある大音寺坂[2]において、深堀領の武士深堀三右衛門・志波原(柴原・柴田)武右衛門(清右衛門)両名[3]と、初の男孫の宮参りのお祝いでこの日に祝宴を張った長崎会所役人高木彦右衛門の家来の諍いから始まった。
おりからの雪で足場が悪く、当時69歳の三右衛門がついていた杖が払った泥が彦右衛門の使用人の惣内[4]という人物にかかった。2人は非礼を詫びたが惣内達はこれを許さず、口論になった。この時の諍いはいったん収まったが、夕刻浦五島町にある深堀鍋島家の蔵屋敷に高木の家来10数人が屋敷内に乱入し、三右衛門と武右衛門の他、屋敷に居合わせた者たちに暴行を働いた上に大小の刀を奪った[5]。
深堀藩士の討ち入り[編集]
ことここにいたって深堀側も黙っているわけにはいかず、三右衛門の息子・嘉右衛門以下10名が深堀から長崎へ向かった。彦右衛門は屋敷の門前で「昨日之相手出し可申候、打果し可申(昨日の相手を出せ、討ち果たしてくれる)」と詰め寄る三右衛門と武右衛門に対して低姿勢で謝罪し、佐賀藩の長崎聞番(佐賀と深堀の間に立つ連絡役)である伊香賀(いかが)利右衛門も穏便に済ますよう働きかけたが、ことは収まらなかった。
西浜町[6]にあった高木彦右衛門屋敷に到着した深堀藩士10人に三右衛門・武右衛門の2人を加えた合計12名は、翌20日未明に屋敷へ討ち入った。門番を斬り殺して大門を開け、門内に侵入すると、外からの加勢を防ぎ内からの逃亡をさせないために再び門を閉め裏口も固めた。屋敷に準備してあった弓の弦は切断され、槍も投げ捨てられた[7]。
彦右衛門も刀を持ち出し応戦したが、討ち取られ死亡。本懐を遂げた後、深堀衆は彦右衛門の首を切断し槍先に突き刺して、深堀屋敷へ引き上げた。城島次郎右衛門以下9名も後から駆けつけたが、既に彦右衛門は討たれていたため、戦闘には不参加であった。
なお、三右衛門は高木邸の玄関の式台で、武右衛門は中島川に架かる大橋(後の鉄橋(くろがねばし))で、それぞれ切腹した。しかし、死後2人の遺骸を検死したところ、腹部に切傷が無かったため、切腹したのではなく仲間の深堀衆から斬り殺されたとする説もある[8]。
長崎奉行の反応[編集]
長崎聞番の伊香賀はただちに長崎奉行に事件を報告、家老・田代喜左衛門とともに口上書を提出した。差出人名は最初に討ち入った10名であった。奉行所は高木屋敷周辺で聞き取り調査するにつれ、実際に討ち入った人数はもっと多いのではないかと考え、これを問われた深堀側は合流した9名を追加した。
佐賀藩からも深堀屋敷警護のために本国から家来・足軽数十名を派遣・任務に就く。
長崎奉行は将軍・徳川綱吉、側用人・柳沢吉保以下江戸幕府首脳にこれを報告、判断を仰ぐことにした。詮議には柳沢吉保の他、阿部正武・牧野成貞も参加。鍋島家当主・官左衛門の先祖は島原の乱では抜群の働きをしたのだから家来も当時の強みを残しているのであろう、今度の仕儀もいささか強すぎた働きだったが、鍋島の家風であるゆえ致しかたない、と詮議は武士である鍋島家側に好意的なものであった。
判決[編集]
- 深堀側は最初に討ち入った10名は切腹、追加の9名は五島列島へ島流し。主の鍋島官左衛門は当時佐賀にいて長崎に不在であったとして御構い(処罰)なし。
- 高木側は彦右衛門の息子・高木彦八郎(彦六、彦八)が、邸内にいたにもかかわらず隠れて手合わせさえしなかったのは不届として、家財没収の上、長崎五里四方からの追放、江戸・大坂・京への居住禁止。そしてこの騒ぎの原因を作った、深堀屋敷へ押し入った使用人9人は全員斬首[9]。
翌年3月、深堀屋敷にて奉行所立会いのもと10名の切腹が行われた。
その後[編集]
処罰はきわめて軽いものに留まった官左衛門は、逆に武士の一分を示したということで称賛を受け、祝賀に訪れる者さえもあったという。
五島列島へ流された9名は、9年後の宝永6年(1709年)に綱吉が亡くなったことによる恩赦で深堀へ戻ることができた。現地では毎年、藩士の命日に法要が営まれている。
この事件は江戸をはじめ全国でも大きな話題となり、その様子は『元禄世間拙風聞集』『鸚鵡籠中記』『葉隠聞書』などにも記されている。
長崎出身の町人学者・西川如見が、その著作『町人嚢』において「武家に生れん事猶々迷惑なり、一生君におそれつかれかへて心のいとまなく、名利を第一として人の目をおどろかし、いかめしきふるまいをたのしみとせんよりは、ただ此町人こそ楽しけれ」(町人でいることがもっとも良い、何事に不自由な武士に生まれなくて良かった)と書いているのは、この事件を通して得た長崎町人の町人観・武士観を示していると言われている[10]。
脚注[編集]
- ^ 『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』226 - 227頁。
- ^ 東の今下町に向かう坂道は、元和6年(1620年)にミゼリコルディアの跡地に大音寺が建立されたことから、大音寺坂と通称された。
- ^ 家禄はそれぞれ30石と12石。
- ^ 名前は諸説あり、文献によっては「又助と久助」となっている。
- ^ 奪われた刀は、伊香賀利右衛門の周旋で返却された。
- ^ 後の長崎市銅座町・浜町。
- ^ 吉良上野介の邸に討入った赤穂浪士は、この時の深堀藩士たちの戦法を参考にしたといわれる。
- ^ 『元禄世間咄風聞集』より。
- ^ 惣内たちは、討ち入りの際に殺されたとも、その前に逃走していたともいわれる。
- ^ 「株式会社」長崎出島』206頁、『長崎 歴史の旅』、『長崎県の歴史』239頁。
参考文献[編集]
- 『流人と非人 長崎奉行の記録』 森永種夫著 岩波新書 1979年
- 『長崎 歴史の旅』 外山幹夫著 朝日新聞社 ISBN 4-02-259511-6
- 『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』 平凡社
- 『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』 外山幹夫著 中央公論社 1988.12 ISBN 4-12-100905-3
- 『長崎県の歴史』 山川出版社 ISBN 978-4-634-32420-6
- 『「株式会社」長崎出島』赤瀬浩 講談社選書メチエ ISBN 4-06-258336-4