浦添ようどれ
浦添ようどれ(うらそえようどれ、ウラシーユードゥリ)は、沖縄県浦添市にある琉球王国の陵墓。英祖王と尚寧王が一族と共に葬られている。[1]
墓室
[編集]浦添城跡北側崖下中腹に設けられた掘込墓である。ようどれは夕凪の意。別名極楽陵。
西室(英祖王陵)と東室(尚寧王陵)の二つの墓室を中心に墓庭、門、石牆(石垣囲い)からなる。国の史跡・浦添城跡の一部。英祖が1261年に築き、尚寧王が1620年に修築したと伝えられる[2]。
墓庭から向かって右側が西室(英祖王陵)、左側が東室(尚寧王陵)と言われている。墓庭は一番庭、二番庭からなり、その周りを石牆、中御門が囲んでいる。外側にあった天然の岩からなる「暗しん御門」(くらしんうじょう)は戦争で破壊された。
西室には中国産の閃緑岩製の石厨子(石棺)が3基ある。東室には閃緑岩製1基、微粒子砂岩(方音:ニービヌフニ)製1基、石灰岩製1基の計3基の石厨子がある。
戦前墓庭にあった石碑「ようとれのひのもん(極楽山之碑文)」には、「尚寧王は浦添から首里の王位に就かれた。ようどれは英祖王の墓であるからこれをきれいに修理するとともに、祖父(小禄御殿二世・尚弘業、浦添王子朝喬)と父(三世・尚懿王、与那城王子朝賢)の遺骸も葬った。ゆくゆくは尚寧王もここに入るだろう」という趣旨の内容が和文並びに漢文で石碑の表裏にそれぞれ記されていた。
沖縄戦で大きな被害を受けたが、近年発掘調査の後、戦前の姿に修復された。発掘調査から、浦添ようどれは最初13世紀に造営されたと考えられ、『琉球国由来記』にある咸淳年間(1265年 - 1274年)に造営されたという記述と矛盾しないことが裏付けられた。癸酉年銘の高麗瓦が発掘されていることから、咸淳9年癸酉(1273年)が造営年として有力視されている。
この初期ようどれ(第1期)造営の後、尚巴志王代(第2期)、尚寧王代(第3期)の二回に渡って、大規模な改修がなされた。西室にある閃緑岩製石厨子は元々あった漆塗板厨子(木製厨子)をこの第2期の改修時に置き換えたものと考えられている。3基の石厨子のうち、一番大きなものが英祖王の石厨子と見なされている。
墓の中にある石厨子は県指定有形文化財になっている[3]。
工房跡
[編集]二番庭の石積み付近から坩堝(るつぼ)や金床石、鉄滓、釘、飾り金具などが発見されており鉄や銅などの金属製品の工房跡とされている[1]。
調査
[編集]1996年から2004年にかけ発掘調査が行われた[1]。
参考文献
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 沖縄考古学ニュース 沖縄県立博物館・美術館、2020年1月29日閲覧。
- ^ 下地安広「浦添グスクと浦添ようどれの発掘調査から解ること」『しまたてぃ』NO.32.2005.1 25-27
- ^ 日本観光協会(沖縄県浦添市)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]座標: 北緯26度14分51.1秒 東経127度43分54.2秒 / 北緯26.247528度 東経127.731722度