津軽政たけ

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本来の表記は「津軽政兕」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
 
津軽政兕
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文7年6月10日1667年7月30日
死没 寛保3年1月25日1743年2月19日
改名 万吉(幼名)→信房/信全(初名)→政兕→泰雅(号)
別名 通称:采女
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
陸奥弘前藩黒石領当主
氏族 津軽氏
父母 父:津軽信敏
兄弟 政兕信隣
上杉綱憲養女・阿久里姫(吉良義央娘)
綾姫(津軽寿世正室)、畠山義躬正室[1]本目正房
養子:寿世津軽信政五男)

津軽 政兕(つがる まさたけ)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本陸奥国弘前藩分家・黒石領(4,000石)3代当主。日本最古の釣り指南書『何羨録』の著者として知られる。

生涯[編集]

寛文7年(1667年)、2代当主・津軽信敏の嫡男として誕生する。延宝6年(1678年)5月10日、4代将軍徳川家綱にお目見えする。

天和3年(1683年)12月14日、父・信敏の死去により、家督を相続し、小普請に所属する。先代までは交代寄合だった。本家の弘前藩4代藩主・津軽信政(父の従兄)から偏諱を受け、政兕と名乗る。貞享3年(1686年)9月、出羽国米沢藩4代藩主・上杉綱憲の養女・阿久理[2]と婚姻するが、翌4年(1687年)阿久理が死去している。

元禄3年(1690年)11月23日、桐間番となる。同年12月2日、5代将軍・徳川綱吉小姓となる。元禄6年(1693年)8月9日、小姓を御役御免となり、小普請組に再編入された。元禄11年6月23日、領地の内で上野国勢多郡内1500石を陸奥津軽郡伊達郡内1500石に移される。享保4年(1719年)6月26日、寄合の所属となる。

元禄15年(1702年)12月14日、元・赤穂藩士により義父・吉良義央が殺害される(赤穂事件)。事件の翌朝、吉良邸に真っ先に駆けつけたのが政兕主従とされる。

享保8年(1723年)、日本最古の釣り指南書とされる『何羨録』を執筆した[3]。この当時、武士の間では釣りが愛好されており、政兕も嗜んでいた。徳川綱吉により生類憐れみの令が施行されると、「釣魚は武士の修練のうち」とされ黙認されていたが、その後の数度の法改正により釣りは規制対象となり、違反者の処罰や釣り道具の販売も禁止された。このような釣りを取り巻く環境は、綱吉が死去し、宝永6年(1709年)に新井白石によって生類憐れみの令が廃止により解禁されるまで続いた。 本書の冒頭には「釣りは江戸の娯楽」「釣り船に乗れば社会的名誉は重要ではない」との趣旨の一文が添えられている。

享保19年(1734年)6月21日、隠居し、津軽信政の五男で養子・寿世に家督を譲る。隠居後は泰雅と号する。

寛保3年(1743年)、死去。生前に子や孫に先立たれた。 なお、宝暦2年(1753年)4月 黒石市牡丹平の八幡宮境内に馬術調律のため馬場(現存)を開設した、と伝承記録されているが、死亡年とは合致しない。

脚注[編集]

  1. ^ 後に離婚。
  2. ^ 実父は吉良義央、綱憲の実妹。
  3. ^ ただし享保元年には執筆完了していたとの説もある。