河村通夫

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河村 通夫(かわむら みちお、1948年3月11日 - )は、日本ラジオパーソナリティ、ナチュラリスト。身長173cm、血液型O型。京都府出身。

人物[編集]

幼少期、青年期を京都で過ごす。料理の先生だった母から料理、名工と言われたおじからは、カンナの刃の研ぎ方をはじめ、木工の技術を学ぶ。北の大地に自らの可能性を見出し、1966年に北海道に移住。札幌の割烹での修行、ライブハウス経営に携わった後、1981年に栗沢町(現在岩見沢市)に念願の土地を手に入れ、山林を開墾。畑や庭作りをし、自らの手で家を建てるなど、「生きること」の知恵と心と技を探求し続けている。自然志向の健康食品(「ぬか玄」シリーズ、「大自然ラーメン」等神奈川県の食品メーカー・健康フーズ(旧:杉食)や地元の中村食品産業と共同開発)を提案する他、有機農法(ガーデニング)、建築、芸術など多方面で活躍している。特にぬか玄の開発は、世に米ぬか健康法を広めた。

またラジオパーソナリティとしても活躍し、現在STVラジオ河村通夫の桃栗サンデー(日9:30~10:30)』や全国ネットラジオ『河村通夫の大自然まるかじりライフ』を担当し、地元のみならず、全国に発信し続けている。 「桃栗サンデー」は前身の『桃栗三年』『桃栗金曜日』に引き続き、34年間(2018年現在)わたる長寿番組であり、『大自然まるかじりライフ』も32年間(2018年現在)続いている。若き日は、深夜放送の看板番組『アタックヤング』や『河村通夫のセッセセッセと』で、『アニキ』と慕われ、圧倒的な支持を得ていた。

地元STVテレビでは、1981年より『2時ワイド』『どさんこワイド』で、暮らしの達人として、食養生・料理・菜園・ガーデニングなどを約25年間担当し、好評を得た。

2010年から、森産業とのコラボレーションにより、『草取り知らずの敷きつめ堆肥』等の『らくらく園芸シリーズ』を考案し、昔ながらの病気に負けない堆肥農法の普及に心を注いでいる。

河村通夫ヒストリー[編集]

北海道新聞連載「私のなかの歴史」河村通夫・自然の理に従う(2016年4月~5月・全32回)を中心に、ラジオ番組「河村通夫の桃栗サンデー」、「河村通夫の大自然まるかじりライフ」で放送されたことを加えて作成。

彦根藩井伊家の御典医・河村医家の子孫として、滋賀県蒲生郡日野町の河村医院で生まれる。幼少期、青年期を、京都で過ごす。

幼少期[編集]

父は判事、母は料理研究家。河村医院の祖父の所(滋賀県蒲生郡日野町)には、良く遊びに行き、祖父の食養生に触れる。また、母の料理講習会について行き、門前の小僧よろしく、栄養学を学ぶ。名工と言われた親戚のおじさんから、ノミ・カンナをもらい、研ぎの練習から教わる。(1977年のアルバム「雪割りの下」の「めぐる人」で、おじさんへの感謝の思いを歌っている。)職人技に大変な興味を持ち、「石屋さん、畳屋さん、大工さん…。学校の帰りや夏休みなどに、現場のそばに行ってじっと見ていました。」と、北海道新聞の取材で語っている。また、マンドリンを嗜む父からは、ピックの使い方を教わり、ウクレレの弾き語りが好きだった母を見て、コードを覚えた。

学生時代[編集]

中学に入り、先生から「河原の石を見ると、上流の山の成因がわかる」という事を教わり、夢中になる。地学部に所属し、京都の山々を歩き、岩石採集に明け暮れる。中学2年の時に、如意が岳(通称・大文字山)の岩石の研究をし、ユネスコ賞を受賞。

高校では、まず、「能狂言クラブ」に籍を置く。入部の理由は、勧誘時の先輩の謡(うたい)が、腹の底から響き、すごいと思ったから。高校1年の後半、高校新聞に意見を投稿したところ、局長が来て「君は文章がうまいから、新聞局に入らないか」と言われ、新聞局に入る。また、ギターを弾くようになり、ボブディランやブラザーズ・フォア、ピーター・ポール&マリーらの曲に、心を動かされたと言う。

北海道へ[編集]

父親や高校の先生に「君は国家から離れ、在野に生きる方がいい」と言われ、生き方に悩む。見聞を広めたいと考え、高校三年の夏休みに、京都から遠いところに行ってみようと、北海道への旅に出る。札幌で、旅費を稼ぐため、割烹「新星」で皿洗いのアルバイトをする。そこで割烹の経営者・中山喜治雄氏と出会い、京都から来たいきさつなどを話したところ、「本格的に修業をする気持ちがあるなら、俺が仕込んでやる」「修業をし、経営を学んで、一日も早く独立させてやる」と言われ、そのスケールの大きな人柄に衝撃を受け、以降、中山氏を師匠とし、北海道で根を張って生きて行くことになる。

修業の時代[編集]

中山氏の下、料理人の修業、ステージの照明、バーテンダー、帳簿の付け方、手形の扱い、売掛金の集金など、様々な現場の実学を教わること3年あまり。1969年(21歳)のある日、雑談で河村が、「フォーク音楽が好きだけれど、そうしたお店がない」と、中山氏につぶやくと、「手ごろな店舗があるから、自分の思うようにやってみろ」と言われ、独立することになる。そして、日本初のフォークのライブハウス「パフ」(札幌市中央区南5西6)が誕生する。

ライブハウス「パフ」の時代[編集]

「パフ」の店名は、ピーター・ポール&マリーの名曲から取ったもので、お店のスタッフが、ステージも務め、飛び入り自由。1971年、(23歳)店が軌道に乗り始めた頃、ススキノ南4西2の「わたなべビル」に移る。次第に、入店待ちの行列ができるようになり、73年には、同ビル内に2件目のライブハウス「蟻の歌」を開店。「パフ」「蟻の歌」の知名度が上がるにつれ、様々なミュージシャンが来店するようになる。高石ともやとザ・ナターシャー・セブン、小坂一也、高田渡、紙ふうせん、小坂恭子、長谷川きよし、なぎら健壱、マイペース、下田逸郎など。

ラジオ・パーソナリティーへ[編集]

1974年2月(25歳)、北海道のSTVラジオから「ラジオで番組をしてみないか」「自由にしゃべっていいし、どんな曲をかけてもいい」と熱心に勧められ、「河村通夫のセッセセッセと」(月~金の午後10時台、10分間の帯番組)を始める。翌75年、深夜放送「アタックヤング」(深夜0時からの1時間番組、曜日ごとにパーソナリティが変わる)も担当することになる。「アタックヤング」には、のちに後輩の松山千春、田中義剛も参加する、STVラジオの若者向けの看板番組であった。河村の曜日は、「起きてるかい、兄貴だよ」と始まり、リスナーの悩み、恋愛などの相談に乗り若者に支持され、深夜にもかかわらず、聴取率は、10%を超えるお化け番組だった。

「河村通夫と20人衆」[編集]

STVのラジオ番組で人気が出、「河村通夫と20人衆」として、演奏活動をするようになる。大学の学園祭、高校の文化祭、成人式などに呼ばれる。1979年(31歳)には、東京の渋谷公会堂でコンサートを開き、全国ツアーもした。アルバムは、2枚発売している。1977年「雪割りの下」(東芝EMI)、1980年「十勝野」(CBSソニー)。

開墾を始める[編集]

1976年頃から、体調がすぐれず、玄米や自然食を始める。農薬を使わず、堆肥などで土づくりをした野菜を作るため、広い畑が欲しくなり、1980年(32歳)、岩見沢市栗沢町美流渡の山林約20ヘクタールを求める。翌81年には、ラジオ番組を降り、ススキノの店を後輩に譲り、本格的に家族で開墾を始める。明治期に北海道を開拓した方法を経験したいと、人力でオノ、ノコ、島田ぐわなどを使い、木を切り倒す事から始めた。「木を一本倒すと、パーッと光が入って空が見える。開墾は、空が広がるんだと思った。」と、後々、ラジオ番組で本人が語っている。一年目に畑を作り、二年目は、かつての開拓者が残していった馬小屋を修繕して寝泊まりできるようにし、三年目からは自力で家作りを始めた。北海道と北米の気候風土は共通点があると考え、アメリカの開拓期を描いたテレビドラマ「大草原の小さな家」の家が理想だと思い、ツー・バイ・フォー工法で、こつこつと建てて行った。83年晩秋、雪が降る前に、家に屋根をかける事が出来、冬の間に内装工事をして、84年の春(36歳)、札幌から家族で移り、念願の山暮らしを始める。

テレビ番組で好評[編集]

この開墾期には、STVのテレビ番組「2時ワイド」などに、コメンテーター、料理番組担当として、6年4か月に渡り、出演している。開墾の様子なども、放送された。この「2時ワイド」が視聴率のトップをとるなど、好評を博す。

米ぬか健康法[編集]

STVラジオから、「ラジオの集大成の番組を作ろう」との話が持ちかけられ、家族で美流渡に移ったのと同時期、1984年の4月(36歳)から、「河村通夫の桃栗三年」(月~金、午前10時から12時)を始める。番組の中で、「白いご飯と空炒りした米ぬかを食べれば、玄米の栄養が摂れる」と、紹介したところ、反響がすごく、米ぬかブームが起こる。また、「米ぬか健康法」「続・米ぬか健康法」(ともに小学館)が、ベストセラーとなり、ブームは全国に広がる。

翌1985年、神奈川県の食品メーカー・杉食(現・健康フーズ)の協力で、麹菌を植え付けて酸化しにくくした米ぬか「ぬか玄」を完成させる。農薬の心配のない米ぬかを使用し、これを食べれば、手軽に玄米の栄養が摂れるというもので、2018年現在で発売33年のロングセラー。

山の自宅から生放送[編集]

1991年10月(43歳)から、STVラジオ「河村通夫の桃栗金よう日」(金曜、9時から12時)を始める。当初は、栗沢町美流渡の自宅二階に専用回線を引いて、生放送をしていたが、スタッフが毎週通ってくるのが大変(特に冬)なので、2年ほどしたころから、河村が札幌のSTVラジオに通う事になる。

野菜料理の原点 漬物ブーム[編集]

「桃栗金よう日」では、「バケツでニシン漬け」など、失敗せず、手軽に漬けられる漬物を次々に考案し、STVテレビ「どさんこワイド」でも毎週紹介して、漬物ブームとなり、「漬物おじさん」と呼ばれる。(「どさんこワイド」の出演は、1996年10月~2006年3月。「暮らしの達人」として、ガーデニング、料理、漬物など、軽やかに実演し、紹介した。)番組と連動して、「河村さんちのキムチの素」、「河村さんちの鉄粉ぬか床」、「白菜漬けの具」、「細切り昆布」(いずれも「中村食品産業株式会社」)など、漬物用品を考案する。また、1996年(48歳)より、STVラジオ、中村食品産業株式会社の協力で、秋の漬物シーズンには、「河村通夫のつけものレシピ」を、毎年10万部発行し、スーパーマーケットなどで、無料配布している。漬物レシピや番組内で紹介する料理は、イラストレシピで、解りやすく、北海道の食文化に貢献した。

桃栗サンデー[編集]

「桃栗金よう日」は、2001年4月(53歳)に、金曜日から日曜日に移り、「桃栗サンデー」(日曜朝9時から11時)と番組名を変える。2016年4月~2017年3月の一年間は、「喜瀬と通夫の日曜楽楽生ワイド」(日曜昼12時から午後5時)を務め、2017年4月(69歳)からは、元の番組名「桃栗サンデー」(日曜朝9時30分~10時30分)に戻り、今に至る。

江戸時代の絵皿の研究[編集]

彦根藩の御典医をしていた先祖の古文書や古書は、滋賀医科大学附属図書館に寄贈され「河村文庫」として残されている。河村は、先祖が井伊直弼の体調を細かく記した「殿様日記」が読めず、50歳を過ぎた頃から、古文書が読めるよう、江戸の文字を学ぶ。

かねてより自然体の江戸の暮らしに興味を持っており、同じころから、江戸時代の絵皿を集め始め、古書も集め始める。江戸時代の絵手本の中に、皿と同じ絵を見つけ、絵解きの研究に夢中になる。(江戸絵皿の絵解き図鑑の出版を準備中。)

江戸時代の心学書から、人として、より楽に生きる心の持ち方を学び、ラジオなどで、「人の心は面の如し」「珍しきことに誠少なし」「相手の心が和らげば、これ善なり。相手の心が乱れれば、これ悪なり」など、心の養生を解く言葉を紹介している。

京都西陣の町家の改修・景観重要建造物に指定される[編集]

幼少の頃から、伯父に教わった木工の技術は、その後も学び続け、35歳で自宅を建てた。それに伴い、伝統的な日本建築に惹かれ、2005年(57歳)の頃から、京都西陣にある大正期の町家(延べ面積100坪)と土蔵を、当時の技術・技法を基本として、当時の建具・ガラス・照明器具・金物などを探し集め、忠実な時代考証のもと、弟子の娘婿と共に、修復を始める。現在、京都市の景観重要建造物に指定され、建物の公開と江戸絵皿の展示を計画中。

らくらく園芸[編集]

2011年(63歳)から、北海道士幌町の森産業株式会社とコラボレーションし、ユーチューブで、「らくらく園芸虎の巻」を配信。30数年かけて造った庭・畑の様子が見られる。そのハウツーをまとめた園芸レシピ「らくらく園芸虎の巻」を、森産業と協力してホームセンターなどに提供し、昔ながらの病気に負けない堆肥農法の普及に心を注いでいる。

また、「草取り知らずの敷きつめ堆肥」、完全有機肥料「花咲か燐さん」、「河村さんの草取りガマ」などを考案。特に「草取り知らずの敷きつめ堆肥」は、北海道から全国へと広がり、河村のラジオ番組や森産業への問い合わせも多く、一時的に品切れするなどの現象が起きた。

河村のプロデュースは、「自分が欲しいもの」、かつ「トラブルを起こさない天然自然のもの」という発想に基づいていると、河村がラジオで語っている。同じく河村がプロデュースした「河村通夫の米ぬか石けん」は、STVラジオショッピングなどで、爆発的に売れている。

生き続けたラジオ番組[編集]

北海道のラジオでは、44年間(2018年現在)に渡り、発信を続け、北海道外では、1986年(38歳)から、「河村通夫の大自然まるかじりライフ」(月~金曜・10分間番組)を、全国ネットで32年間(2018年現在)、続けている。

「桃栗サンデー」、「大自然まるかじりライフ」ともに、「男心と女心の違い」、「らくらく家庭菜園」、「グラタン皿活用料理」など、「人は楽しむために生れてきた」との思いから、人生を楽に楽しむ方法を語り続けている。河村の「生きてるだけで百点満点」は、名言で、リスナーからの反響も多い。

実学的料理の唄へ[編集]

音楽の店「パフ」から退いた後も、ライブなど音楽活動を続け、1994年(46歳)からは、「北海道音楽年鑑」と名付けたコンサートを始める。北海道にゆかりのあるミュージシャンと集い、「北海道ミュージシャンネットワーク」の初代代表を務めた。95年には、阪神大震災救援コンサートも開いた。

STVラジオの活動などを通して、「帰って来るなサーモン」、「ウスバカゲロウ」など、様々な曲を作ってきたが、2016年頃から、歌でレシピを覚えられたら、良いのではないかと、レシピソングを作り始める。「煮魚の歌」「ジッパー袋で白菜漬け」「ジッパー袋で千枚漬け」「茶碗蒸しの歌」「おでんの歌」「冷やし中華そうめんの歌」「浅漬けの素の作り方」などを放送し、リスナーから「歌で料理が覚えられて嬉しい」との声が寄せられ、現在も日々制作中。

例 「煮魚の歌」歌詞[編集]

お玉1杯のお醤油と お玉3杯のお水を

お鍋に入れて 火にかける

煮立ったところで 魚を入れて 落し蓋してコトコト

10分から 15分 煮てください

煮魚は 醤油1杯 水3杯

ディスコグラフィ[編集]

レコード[編集]

  • 雪割りの下(東芝EMI)
  • 河村通夫と20人衆『十勝野』(CBSソニー)

著書[編集]

  • 帰ってくるなサーモン
  • 米ぬか健康法 美しくやせる (小学館刊)
  • 続 米ぬか健康法 実践編 (小学館刊)
  • 自然塩健康法 (小学館刊)
  • 自然流3分クッキング (小学館刊)

連載[編集]

  • 日経ヘルス「一生もんの定番料理」(2000年10月~2007年1月)

外部リンク[編集]