河村秀清

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河村 秀清(かわむら ひできよ、治承元年(1177年) - 没年不詳)は、鎌倉時代武将御家人相模国足柄郡河村郷(現・神奈川県足柄上郡山北町)の住人。藤原氏秀郷流波多野氏の一族。幼名は千鶴丸、通称は四郎(河村四郎)。

概要[編集]

治承元年(1177年)に波多野義通の実弟・河村秀高(ひでたか)の四男(母は源頼朝の御所の女官である京極局)[1]として生まれる。兄に河村則実(のりざね、柳川二郎)と河村義秀(よしひで、河村三郎)、弟に河村秀経(ひでつね、河村五郎)がいる。「河村」の姓は、父・秀高(名は遠実(とおざね)とも)がその父(秀清の祖父)である波多野遠義(とおよし)から河村郷の所領を譲られてそこを本拠とし、その地名をとって名乗ったことに始まる[2]

源頼朝が挙兵した際、兄の義秀はそれに応じず平家側につき、治承4年(1180年)の石橋山の戦いでも大庭景親に同調したが、富士川の合戦後に景親らとともに捕縛された。河村郷を中心とする義秀の所領(本貫地)は没収され、本来ならば斬罪に処されるべきところを、以前より頼朝方であった景親の兄・景義の計らいによって罪を赦されている[注釈 1]。9月には本領であった河村郷を安堵され、以後御家人として活動することとなる。義秀が捕縛された時、その弟である千鶴丸は浪人となり母・京極局のもとにいたようである[1]

吾妻鏡』によれば、文治5年(1189年)、若年の千鶴丸は13歳にして奥州合戦に参加、三浦義村らとともに、藤原泰衡の異母兄・藤原国衡がまもる陸奥国阿津賀志山(現・福島県伊達郡国見町厚樫山)の堡塁(ほうるい)を攻めて武功を挙げ(阿津賀志山の戦い[4]、これに感激した頼朝は、8月12日、船迫駅において[1][5]、自らの御前で元服させた[1][5] [注釈 2] という。この時の烏帽子親は頼朝からの指名により[注釈 3]小笠原長清が務め[1]、「清」の字を与えられて[注釈 4]秀清と名乗った。

加えて秀清は戦後の論功行賞により、岩手郡斯波郡北上川東岸一帯と茂庭の地、そして摩耶郡の三カ所に所領を賜った。確証はないが、秀清自身はその中間地である茂庭に居を定めたとする説が有力視されている。[要出典]また、秀清は備中国川上郡の成羽(現・成羽町)の地に所領を得て鶴首城を築き、さらに所領の1つである斯波郡の大巻(現在の紫波町の辺り)にも大巻城(大巻館)[注釈 5]を築いたとも伝えられている。

以後、河村氏は本家筋の波多野氏とともに北条氏に従い、承久3年(1221年)の承久の乱では兄・義秀とともに幕府方について宇治川で戦い、武功を挙げた。その後は没年を含め不明である。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 建久元年(1190年)の鶴岡八幡宮での流鏑馬で三尺・手挟・八的などの難しい的を見事に射抜くという技を披露し、頼朝よりその武芸を見込まれて許されたという[3](コトバンク「河村義秀」の項 より)。
  2. ^ この元服は、進軍中の隅田宿(現在の隅田川の付近)における結城朝光の元服(治承4年(1180年)10月2日、烏帽子親は源頼朝、典拠は『吾妻鏡』)の時と同じように、御所ではなく、戦場で急に設営されたものであった。そのため、幕府の行事らしき体裁も備わっていないが、その不備が問題になったという様子も見られないことから、場所や体裁よりも将軍の御前で元服したか否かが重要であり、列参者や引出物等は副次的な問題に過ぎなかった。このように将軍が烏帽子親になった元服の儀式は、公式なものというよりは、将軍と御家人との私的な関係に基づいて行われていたと考えられる(山野論文、同頁)。
  3. ^ 山野龍太郎論文 表2(山本、2012年、p.166)の「将軍が烏帽子親を指名したケース」の一例として挙げられている。このパターンの例としては他に、同じく『吾妻鏡』に見られる北条時連(のちの時房、烏帽子親は三浦義連)、北条政村(烏帽子親は三浦義村)の事例が紹介されている。なお、秀清が元服した当時、頼朝は将軍(=征夷大将軍)にはまだ任命されていないが、鎌倉幕府の成立時期を頼朝がそれに任命される建久3年(1192年)よりも前であるとする説が唱えられており(→鎌倉幕府#成立時期を巡る諸説を参照)、いずれにせよ頼朝が御家人の上に立つ存在であったとみられる。
  4. ^ 元服にあたっては、それまでの童名幼名)が廃されて、烏帽子親から仮名通称名)と実名)が与えられるが、その際にその実名の一字(偏諱)の付与がなされることが多い[6]。言い換えれば、偏諱を賜うということは烏帽子親子関係を結ぶことを意味していた[7]
  5. ^ 別名「河村館」、「館平」とも呼ばれ、眼下には北上川が流れ、背後には北上山地の連山をひかえる要害の地であった。館山に残る大巻館跡には、三重の濠と土塁がめぐらされた戦国期の遺構が残されており、その規模の大きさから、考古学的には河村氏の本拠はこの大巻館であったものと考えられている。[要出典]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e
    十二日己亥。一昨日合戦之時。千鶴丸若少之齢而入敵陣。發矢及度々。又名謁云。河村千鶴丸云々。二品始令聞其号給。仍御感之餘。今日於船迫驛被尋仰其父。小童為山城権守秀高四男之由申之。依之。於御前俄加首服。号河村四郎秀清加冠加々美次郎長清也。此秀清者。去治承四年石橋合戦之時。兄義秀令与景親謀叛之後。牢籠之處。母二品官女号京極局。相計而暫隠其号。置休所之傍。而今度御進發之日。稱譜第之勇士。企慇懃吹擧之間候御共。忽顕兵略。即開佳運者也。晩景令着多賀國府…… — 『吾妻鏡』文治5年(1189年)8月12日条。
  2. ^ 河村 1998.
  3. ^ 関 1990, p. 132.
  4. ^
    九日、丙申、入夜、明旦越阿津賀志山、可遂合戦之由被定之、爰三浦平六義村葛西三郎清重工藤小次郎行光同三郎祐光(行光の弟)・狩野五郎親光工藤茂光の子)・ 藤沢次郎清近河村千鶴丸年十三才、以上七騎、潜馳過畠山次郎之陣、越此山、欲進前登、是天曙之後、与大軍同時難凌嶮岨之故也、…… — 『吾妻鏡』文治5年(1189年)8月9日条。
  5. ^ a b 山野 2012, p. 171.
  6. ^ 山野 2012, p. 162.
  7. ^ 田中 2013, p. 19.

参考文献[編集]

  • 石井進『鎌倉武士の実像 : 合戦と暮しのおきて』平凡社〈平凡社ライブラリー 449〉、2002年11月(原著1987年)。ISBN 4582764495
  • 河村隆夫 (1998年). “遠江国河村荘と河村氏”. 河村家の歴史. 河村隆夫. 2019年1月13日閲覧。
  • 関幸彦、「河村秀清」「河村義秀」、安田元久編 『鎌倉・室町人名事典 : コンパクト版』 新人物往来社、1990年9月、132頁。ISBN 440401757X 
  • 田中大喜、「総論 中世前期下野足利氏論」、田中大喜編 『下野足利氏』 戎光祥出版〈中世関東武士の研究;第9巻〉、2013年1月。ISBN 9784864030700 
  • 野口実 『源氏と坂東武士』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー, 234〉、2007年7月。ISBN 9784642056342 
  • 山野龍太郎、「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志編 『日本中世政治文化論の射程』 思文閣出版、2012年3月。ISBN 978-4-7842-1620-8 

外部リンク[編集]