河崎義祐
かわさき よしすけ 河崎 義祐 | |
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本名 | 同じ |
生年月日 | 1936年5月20日(86歳) |
出生地 |
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職業 | 映画監督 |
ジャンル | 青春、アイドル |
活動期間 | 1975年 - 1985年 |
配偶者 | 一般人(1961年 - ?) |
河崎 義祐(かわさき よしすけ、1936年5月20日 - )は、日本の映画監督である。
来歴[編集]
福井県福井市生まれ[1]。福井県立高志高校を1955年に卒業、1960年に慶應義塾大学経済学部卒業後、東宝に入社[1]。当初は宣伝部に勤務していたが、1962年に製作部に転属。黒澤明の『どですかでん』、加藤泰『日本侠花伝』、岡本喜八『日本のいちばん長い日』、森谷司郎『大空戦』など、約40作品の助監督を務めた。1975年、『青い山脈』で監督に昇格。同作で第1回大阪市民映画祭新人監督賞を受賞した。翌1976年公開の『挽歌』では、主演の秋吉久美子がアジア映画祭主演女優賞を受賞。以降、多くのアイドル映画を手掛けた。東宝配給ながらホリ企画制作が一貫して日活へ制作外注していた山口百恵主演シリーズにも東宝監督としては初めて招かれ、『炎の舞』で日活撮影所に赴いている。1983年に東宝を退社してフリーに。1985年、ボランティア団体「銀の会」設立。
後に特定非営利活動法人「シネマネットジャパン」代表者。映画館に足を運べない老人のために「出張上映サービス」を行っていた。長野県安曇野市在住だった。
時期は不明だが会員である日本映画監督協会公式サイトでは物故者となっている[2]。
監督作品[編集]
劇場映画[編集]
- 青い山脈(1975年)
- 挽歌(1976年)
- あいつと私(1976年)
- 若い人(1977年)
- 残照(1978年、兼製作)
- 炎の舞(1978年)
- 青春グラフィティ スニーカーぶる〜す(1981年)
- ブルージーンズ メモリー(1981年)
- グッドラックLOVE(1981年)
- ウィーン物語 ジェミニ・YとS(1982年、兼脚本)
- プルメリアの伝説 天国のキッス(1983年、兼脚本)
- クララ白書 少女隊PHOON(1985年、兼脚本)
テレビドラマ[編集]
著書[編集]
脚注[編集]
- ^ a b 黒井和男 『日本映画・テレビ監督全集』キネマ旬報社、1988年、110頁。
- ^ Directors Guild of Japan (n.d.). “河崎 義祐 日本映画監督協会 会員情報”. 日本映画監督協会. 2021年12月16日閲覧。