河原隆一
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 |
|
| 出身地 | 神奈川県横浜市栄区 |
| 生年月日 | 1971年8月10日(47歳) |
| 身長 体重 |
179 cm 80 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1993年 ドラフト1位(逆指名) |
| 初出場 | 1995年4月11日 |
| 最終出場 | 2003年9月28日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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河原 隆一(かわはら りゅういち、1971年8月10日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(投手)。
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
市立横浜商高時代は、1989年に行われた第61回選抜高等学校野球大会に出場、準決勝で種田仁、元木大介率いる上宮高に敗退。卒業後は、関東学院大学に進学。
大学時代は、1993年の全日本大学野球選手権大会で準優勝、対久留米大学戦で当時の大会記録の17奪三振を記録。同年のドラフト会議で横浜ベイスターズを逆指名し、ドラフト1位で入団。当時巨人も獲得を目指し、横浜以上の金銭条件を提示したが地元の横浜が選ばれた。
プロ入り後[編集]
1994年、即戦力として期待されたがプロの壁に当たり、一軍登板無しに終わる。なお一軍公式戦には偵察オーダーとして1試合起用されただけという珍記録を残す(後述)。
1996年、制球難から1軍登板もわずか数試合に終わるがこの年から制球難解消を目指しサイドスローに挑戦する。
1997年4月13日、対広島戦で初勝利。大矢明彦監督により左の中継ぎとして起用され、この年のリーグ最多登板を記録(この年に一軍初先発も記録)。防御率は6点台だったが、ワンポイント起用が多いため、1自責点でも大きく防御率が跳ね上がることが多かった。3試合連続で1/3回を無失点に抑え続けても、その後にソロ本塁打を浴びれば防御率は0.00から9.00まで跳ね上がるというポジションだったため、防御率よりも1つ1つのアウトが評価された。
1998年、優勝したこの年は故障などで30試合の登板に激減し、防御率も5点台だったが、松井秀喜、金本知憲など左の強打者を得意とした。同じ左の中継ぎだった阿波野秀幸や関口伊織とともに優勝に貢献した。
2000年、チーム2位の登板数とイニングを遥かに超える高い奪三振数を記録しキャリアハイの成績を上げるがこの年以降再び低迷する。
2004年、戦力外通告を受け、合同トライアウトを受けたがどこからも声がかからず現役を引退。
引退後は横浜の球団職員に転身、スカウトを務めている[1]。
選手としての特徴・人物[編集]
アマ時代は快速球を投げる豪腕投手であり「神奈川のドクターK」と呼ばれていたが、制球力に難があり、プロ入り後いく度かフォーム変更をし、最終的にサイドスローに落ち着いた。しかし、問題の制球力は改善される事はなく、球速も落ちた。そのため、左打者に対するワンポイント登板で四球を与えてしまいそのまま交代することが頻繁にあり左殺しとして機能しなかった。
なお、河原が中継ぎに転向した当時の監督だった大矢明彦によれば、河原に左の中継ぎとしてのポジションを確立させる過程にあたって4連続四球(当然ながら相手に無被安打で得点を許すことになる)を出した際にも我慢して続投させたことがあったという。
金本知憲は彼を非常に苦手としていた。
ワンポイントとしての起用が多かったため、通算投球回数が登板試合数を下回るという記録を残している。
ドラフト1位で指名された際、同僚から普通は胴上げされたり、騎馬戦の騎馬の格好をしてくれるものであるが、河原はうつ伏せ状態で、同僚達が頭上を通す(つまり運動会の大玉送りの図式)パフォーマンス(その際河原は両手の人差し指と中指を眉毛の所に当てたウルトラセブンのエメリウム光線のポーズ)を見せた。
詳細情報[編集]
年度別投手成績[編集]
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1995 | 横浜 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 63 | 13.2 | 12 | 1 | 12 | 1 | 0 | 11 | 4 | 0 | 12 | 12 | 7.90 | 1.76 |
| 1996 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 44 | 7.1 | 5 | 1 | 17 | 0 | 2 | 4 | 2 | 0 | 9 | 9 | 11.05 | 3.00 | |
| 1997 | 66 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 231 | 48.2 | 67 | 6 | 24 | 1 | 2 | 43 | 3 | 0 | 40 | 34 | 6.29 | 1.87 | |
| 1998 | 30 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 113 | 24.2 | 21 | 5 | 21 | 0 | 1 | 21 | 2 | 0 | 15 | 15 | 5.47 | 1.70 | |
| 1999 | 27 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 119 | 27.2 | 23 | 2 | 12 | 0 | 2 | 24 | 4 | 0 | 15 | 12 | 3.90 | 1.27 | |
| 2000 | 47 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 2 | -- | .500 | 271 | 59.2 | 63 | 4 | 27 | 4 | 2 | 71 | 3 | 0 | 30 | 23 | 3.47 | 1.51 | |
| 2001 | 15 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 151 | 30.1 | 35 | 4 | 27 | 1 | 3 | 23 | 1 | 0 | 25 | 25 | 7.42 | 2.04 | |
| 2002 | 34 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 83 | 16.1 | 23 | 1 | 12 | 1 | 0 | 21 | 0 | 1 | 13 | 11 | 6.06 | 2.14 | |
| 2003 | 29 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 89 | 17.0 | 24 | 3 | 13 | 1 | 2 | 13 | 0 | 0 | 16 | 16 | 8.47 | 2.18 | |
| 通算:9年 | 271 | 7 | 0 | 0 | 0 | 5 | 11 | 2 | -- | .313 | 1164 | 245.1 | 273 | 27 | 165 | 9 | 14 | 231 | 19 | 1 | 175 | 157 | 5.76 | 1.79 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
記録[編集]
- 初出場(偵察オーダー):1994年4月12日、対読売ジャイアンツ1回戦(横浜スタジアム)、1番・中堅手(高橋眞裕に交代)[2]
- 初登板:1995年4月11日、対読売ジャイアンツ1回戦(横浜スタジアム)、8回表に3番手として救援登板・完了、2回無失点
- 初奪三振:同上、8回表に岡崎郁から
- 初黒星:1996年9月8日、対ヤクルトスワローズ23回戦(下関球場)、延長12回表に8番手として救援登板・完了、2回2/3を1失点
- この試合では延長14回表に失点1を喫し、その裏の攻撃では代打を送られず最後の打者となった。これは横浜ベンチに控えの野手が残っていなかったためでる。
- 初勝利:1997年4月13日、対広島東洋カープ3回戦(横浜スタジアム)、延長12回表に4番手として救援登板・完了、3回無失点
- 初先発:1997年7月6日、対広島東洋カープ14回戦(横浜スタジアム)、2回2/3を3失点
- 初セーブ:2000年8月12日、対ヤクルトスワローズ19回戦(横浜スタジアム)、7回表2死に5番手として救援登板・完了、1回1/3を無失点(雨天コールド)
- 3者連続3球三振:2001年5月1日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、5回裏に岩村明憲・土橋勝征・藤井秀悟から ※史上12人目(セ・リーグ8人目)[3]
背番号[編集]
- 15 (1994年 - 2003年)
- 32 (2004年)
脚注[編集]
- ^ 週刊ベースボール2014年3月24日号 P21
- ^ 日本プロ野球記録
- ^ “楽天松井裕樹が記録した3者連続3球三振を過去に達成しているのは?”. BBCrix. (2017年5月6日) 2017年12月18日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
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