池子住宅地区及び海軍補助施設

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池子住宅地区の高層住宅
池子住宅地区の低層住宅

池子住宅地区及び海軍補助施設(いけごじゅうたくちくおよびかいぐんほじょしせつ)は、神奈川県逗子市横浜市金沢区にまたがる在日米軍施設である[1]。家族住宅(米軍住宅)や運動場が立地しており、アメリカ海軍横須賀基地司令部が管理している[1]。住宅や運動場が建設される以前は、弾薬庫が立地しており、池子弾薬庫(いけごだんやくこ)という名称であった[2]。施設番号はFAC 3087である[2]

現況[編集]

池子住宅地区及び海軍補助施設(以下、単に「池子住宅地区」という)は逗子市池子久木の両地区と横浜市金沢区六浦町とにまたがる[1]。面積は約2.88平方キロメートルで、そのうち約87.3%の約2.52平方キロメートルが逗子市側にある[3]。池子住宅地区の逗子市側部分は、逗子市の面積の約14.5%を占める。池子住宅地区の面積のうち99.8%は国有地である[3]。住宅は「池子ヒルズ」(Ikego Hills)と呼ばれていて[4][5]、特に高層住宅はそれぞれアスカタワー、イズモタワー、イセタワー、カマクラタワー、キョウトタワー、ナラタワー、ニッコウタワー、ミヤジマタワーといった日本の有名な地名にちなんだ名前がつけられている。

池子住宅地区には、高層住宅8棟528戸、低層住宅60棟326戸、合わせて854戸の住宅が立地している。各戸にはベッドルームが3部屋または4部屋ある[4]。これらには、米国軍人、軍属とそれらの家族合わせて約3,400人が入居している[3][6]。附属施設として、管理事務所、テニスコート、野球場、陸上競技場、中央公共施設(売店、食堂など)などがある[3]。これらはすべて日本政府の思いやり予算で建設されたものであり、日米地位協定に基づいて米国側に提供されている。

また、池子住宅地区には、住宅建設に先立って発掘された文化財を保管する池子遺跡群資料館(逗子市教育委員会の施設)がある(入館無料、月曜休館)。そのほか、地区には、在日米海軍横須賀施設本部池子支所、在日米海軍司令部統合消防隊第2消防署、在日米海軍横須賀基地憲兵司令部池子支所がある[3]

地区の交通に関しては、地区から米海軍横須賀基地までは、約12キロメートル、自動車で25分から30分の距離である[7]。地区の最寄駅は京浜急行電鉄神武寺駅である。神武寺駅には居住者専用の改札口がある[8]

普段は地区への部外者の立ち入りは禁じられているが、毎年1回、「池子フレンドシップデー」には部外者の立ち入りが許される。

歴史[編集]

池子弾薬庫一帯の空中写真。住宅地が建設される前の1988年撮影の6枚を合成作成。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。

現在の池子住宅地区の始まりは、1938年(昭和13年)に逗子市側(当時、逗子町)に設置された大日本帝国海軍の倉庫(軍需部池子倉庫)である[2]。この施設は後に第二海軍航空廠補給部池子工場となり、弾薬庫として使用されるようになった[2]。1942年(昭和17年)には、横浜市金沢区側(当時、磯子区)に海軍の毒ガス弾の製造工場(谷戸田注填場)が設置された[2][9]

それらの一帯が第二次世界大戦における日本の敗戦後の1945年9月1日に、日本を占領下に置いた連合国軍を構成するアメリカ陸軍に接収され、アメリカ陸軍の弾薬庫として使用されるようになった[1][2]1947年(昭和22年)11月17日には、弾薬庫で大爆発が発生し[2]、周辺住民5,000人に避難命令が発令された。

1952年(昭和27年)4月28日日本国との平和条約日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧安保条約)の発効に伴い、池子弾薬庫は連合国軍による接収施設から安保条約に基づく提供施設に移行し、引き続きアメリカ陸軍の管理下に置かれた。1970年(昭和45年)7月には、池子弾薬庫が陸軍から海軍に移管された[2]

池子弾薬庫は、ベトナム戦争の終結までは弾薬の貯蔵に使用されていたが、1978年(昭和53年)7月には事実上の閉鎖状態となった[2]。それ以前から、神奈川県、逗子市、横浜市は関係省庁やアメリカ大使館に対し池子弾薬庫の返還を求めて働きかけをし、1972年に一部が返還(第一運動公園)されたものの、翌年にも弾薬搬入が再開され、弾薬庫が閉鎖状態となった後も全面返還には結びつかず、米国側は日本政府に対して弾薬庫跡地での家族住宅の建設を強く要望した[2]

1983年(昭和59年)7月、防衛施設庁は池子弾薬庫跡地への住宅建設を正式に表明した[2]。その後約10年の期間にわたって、住宅建設の是非は、逗子市側で市を二分するほどの大問題となった[2]。この期間には、住宅建設の条件付き受け入れを表明した三島虎好市長の辞職(1984年10月)、受け入れ容認派が多数を占める市議会のリコール解散(1986年3月)、受け入れ反対派の富野暉一郎市長のリコールのための住民投票(1986年3月、リコール不成立)、市議会と対立した富野市長の辞職(1987年8月)などがあった[2]

日本政府は、逗子市の受け入れ表明を得ないまま、住宅建設のための準備を着々と進めた[2]。反対派市長は、仮設調整池工事続行禁止請求訴訟(1989年12月)で対抗したが、工事は続行され、1993年(平成5年)5月にはついに本体工事の着工に至った[2]。訴訟の方は、第1審でも第2審でも逗子市が敗れ、最高裁判所で上告棄却となって終結した(1993年9月)[2]。当初受け入れ反対派であった澤光代市長と当時反対派が多数を占めていた市議会は政府との和解に向けて動き、1994年(平成6年)11月、防衛施設庁長官、神奈川県知事、逗子市長の間に三者合意が成立し、逗子市は住宅建設を正式に受け入れた[2]。澤市長はこの合意の成立翌日に辞職した[2]

1996年(平成8年)4月2日、住宅の一部落成記念式典が行われた[2]。854戸全部が完成したのは1998年(平成10年)3月31日である[2]。このために日本政府が費やした金額は664億円であった[10]

2003年(平成15年)、池子住宅地区の横浜市側にさらに住宅を建設する計画が浮上した[8]。横浜市は計画の修正を条件として住宅建設を受け入れたが[3]、2004年(平成16年)9月、逗子市は住宅の追加建設は1994年の三者合意に反するとして国を提訴した[8]。この訴訟は2007年(平成19年)に逗子市が上告を断念し、終結した[8]。現在は、横浜市側での住宅建設に向けて準備が行われている。この住宅が完成すると、横浜市の根岸住宅地区が日本側に返還される予定である。

また、池子住宅地区の逗子市側部分には、1998年(平成10年)にプレハブの小学校が設けられた[8]。これは、地区内に居住する米国軍人、軍属の子弟のためのものである。現在、日本政府はプレハブのかわりに本格的な校舎を建設する計画を進めている[8]

参考文献[編集]

  1. ^ a b c d 神奈川県公式サイトの関係ページ
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 小山高司「逗子市池子弾薬庫における米軍家族住宅建設について―3代の地元市長の対応を中心として―」『防衛研究所紀要』(第13巻第1号pp. 81-118、2010年10月)
  3. ^ a b c d e f 横浜市公式サイトの関係ページ
  4. ^ a b Ikego Hills(横須賀基地公式サイト内)
  5. ^ 逗子市公式サイト「池子ヒルズ西側運動施設の利用について」
  6. ^ 池子遺跡群資料館公式サイト「池子遺跡群について」
  7. ^ Ikego Housing Detachment(横須賀基地公式サイト内)
  8. ^ a b c d e f 逗子市公式サイトの年表
  9. ^ 環境省「国内における毒ガス弾等に関する総合調査検討会(第12回)」配布資料(資料6参照)
  10. ^ 2008年(平成20年)4月2日衆議院外務委員会における政府参考人地引良幸(防衛省地方協力局長)答弁

関連項目[編集]

  • 米軍住宅
  • 本牧 - かつて在日米海軍の住宅街『ベイサイド・コート』があり、アメリカ村とも呼ばれた。
  • 根岸住宅地区 - 在日米海軍将官の住宅専用施設。返還合意がなされており、2015年内に施設の全居住者が退去予定(多くは当地区に移住)。
  • 横浜市内のその他の米軍関連施設
    • 深谷通信所(送信施設) - かつては横浜市泉区に所在する在日米海軍の基地であったが、2014年6月に同施設を含めた土地全体が日本へ返還された。
    • 上瀬谷通信施設(受信施設) - かつては横浜市瀬谷区・旭区に所在する在日米海軍の基地であったが、2015年6月に同施設を含めた土地全体が日本へ返還された。
    • 鶴見貯油施設 - 在日米海軍の貯油施設。
    • 横浜ノース・ドック - 在日米陸軍及び海軍の港湾施設。横浜港の瑞穂埠頭内に所在。

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度18分32秒 東経139度35分32秒 / 北緯35.30889度 東経139.59222度 / 35.30889; 139.59222