江謐

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江 謐(こう ひつ、431年 - 482年)は、南朝宋からにかけての官僚は令和。本貫済陽郡考城県

経歴[編集]

尚書都官郎・呉県県令の江徽(江秉之の子)の子として生まれた。元嘉30年(453年)、劉劭のために父が殺害されると、江謐は獄に繋がれた。武陵王劉駿建康を平定すると、江謐は出獄することができた。奉朝請を初任とし、輔国行参軍・于湖県令をつとめた。永光元年(465年)1月、湘東王劉彧南豫州刺史となると、江謐は劉彧の側近で仕えた。同年(泰始元年)12月、劉彧(明帝)が即位すると、江謐は驃騎参軍となった。後に尚書度支郎に転じた。まもなく尚書右丞兼比部郎となった。

泰始4年(468年)、江夏王劉義恭の十五女が19歳で死去した。礼官は成人の礼で葬るよう意見したが、尚書左丞の孫敻が『礼記』の規定に反するものと訴えた。博士・太常以下の官が処罰され、江謐も連座して杖罰を受けた。江謐は孫敻が誤った議論を主導したと訴え、処罰を求めたため、孫敻も処罰を受けた。

泰始5年(469年)、江謐は建平王劉景素の下で冠軍長史・長沙郡内史として出向し、湘州の事務を代行した。その統治は苛酷であり、江謐は僧遵を微罪で捕らえて郡の獄に繋ぎ、餓死させた。このため糾弾を受けて召還された。泰豫元年(472年)、明帝が崩御すると、江謐は赦免された。正員郎となり、右軍将軍の号を受けた。

元徽2年(474年)、蕭道成南兗州刺史となると、江謐はその下で鎮軍長史・広陵郡太守となった。入朝して游撃将軍の号を受けた。元徽4年(476年)、建平王劉景素が反乱を起こして殺害され、劉景素と親しい人々は処断されたが、江謐はひとり禍を免れた。元徽5年(477年)、後廃帝が廃位されると、江謐は蕭道成と結び、本官のまま尚書左丞を兼ねた。同年(昇明元年)、黄門侍郎となった。沈攸之の乱が起こると、江謐は蕭道成に黄鉞を加える議論を起こした。昇明2年(478年)、沈攸之の乱が鎮圧されると、江謐は吏部郎となった。太尉諮議に転じ、録事参軍を兼ねた。昇明3年(479年)、蕭道成が斉王となると、江謐は右衛将軍の号を受けた。同年(建元元年)、蕭道成が斉の高帝として即位すると、江謐は侍中の位を受けた。臨川王平西長史・冠軍将軍・長沙郡内史・行湘州留事として出向し、豫章王蕭嶷を補佐して長史をつとめた。永新県伯に封じられた。建元3年(481年)、左民尚書となった。吏部尚書に転じた。

建元4年(482年)、高帝が崩御すると、江謐は病と称して入朝せず、不満を抱いているのではないかと疑われた。武帝が即位したが、江謐は官の異動がなく、これを恨んだ。ときに武帝が病床についたため、江謐は豫章王蕭嶷のもとを訪れて、奪位をそそのかした。武帝がこれを知ると、江謐に征虜将軍・鎮北長史・南東海郡太守への出向を命じた。出発しないうちに、武帝は御史中丞の沈沖に命じて江謐の前後の罪を弾劾させた。このため江謐は死を賜った。享年は52。

子の江介は建武年間に呉県県令となったが、民間で死人の髑髏が江謐の首として掲示されると、江介は官を捨てて去った。

伝記資料[編集]