永明延寿
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永明延寿 | |
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天祐元年 - 開宝8年12月26日[1] (904年 - 976年1月29日) | |
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諡号 | 宗照大師 |
尊称 | 智覚禅師 |
生地 | 杭州余杭県 |
没地 | 杭州永明寺 |
宗派 | 禅宗、白蓮宗 |
寺院 | 永明寺 |
師 | 天台徳韶 |
著作 | 『宗鏡録』 |
永明延寿(えいめい えんじゅ)は、中国の五代十国時代の法眼宗の僧。諡は宗照大師。俗姓は王。字は冲玄。号は抱一子。杭州余杭県の出身。
『宗鏡録』を著し、後世に浄土教の蓮宗の第六祖に位置づけられ「禅浄一致」「教禅一致」を説いたことにされている。
略歴
[編集]出家前
[編集]7歳で法華経を読み、16歳で斉天賦を銭元瓘(後の呉越の文穆王)に献じて官吏となった。
出家以降
[編集]28歳の時、華亭県(現在の上海市松江区)の駐留将校をしていたが、妻子と財産を捨て、雪峰義存門下の翠巌令参の下で出家した。
その後、天台徳韶の法嗣となり、雪竇山資聖寺や霊隠寺に住した。建隆2年(961年)には永明寺に移り、以後15年間、この寺で得度した門弟は、1,700名に及んだという。篤信家として知られる呉越国主の銭氏の尊崇を受けた。『法華経』を誦すること13,000部に及び、造像や造塔を在家者に熱心に奨めた。
その名声は広く知れ渡り、高麗の光宗が延寿の徳を慕い、36人の僧を派遣して弟子入りさせた。また、天台山において10,000人以上の得度・授戒・放生を行なう。
開宝8年12月26日(976年1月29日)、72歳で没し、宗照大師と諡された。法臘42[2]。
没後
[編集]浄住寺に転住した雲門宗の円照宗本により、同寺に保存されていた『宗鏡録』が再評価され、北宋の魏王趙イン[君+頁]、宗本の弟子の大通善本による2度の印刷により全国に普及、大観元年(1107年)の東禅寺版大蔵経に入蔵が許可されるに及んで、中国仏教の思想をまとめ直した内容として評判を博した。
主著
[編集]伝記
[編集]参考文献
[編集]- 『永明延寿と『宗鏡録』の研究 -一心による中国仏教の再編-』(柳幹康、法藏館、2015年)