水野忠守

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
水野忠守
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永5年(1525年[注釈 1]
死没 慶長5年3月28日[1]1600年5月10日
別名 忠義(初名)[1]、清六郎[1]、織部[1]
戒名 照光院月叟芳心居士[2]
墓所 愛知県東浦町乾坤院
主君 織田信長[1]徳川家康
氏族 水野氏
父母 父:水野忠政
母:華陽院大河内元綱養女[1]
兄弟 近守信元、女子(松平家広室)、信近忠守於大の方、女子(石川清兼室)、女子(水野豊信[注釈 2]室)、近信忠勝、藤助、女子(中山勝時室)、女子(水野忠守[注釈 3]室)、忠分忠重[5]
吉守(金蔵)、守重、忠元、守信、女子(奥平次左衛門の妻)、重家、元吉
テンプレートを表示

水野 忠守(みずの ただもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河国武将水野忠政の四男[1]。兄弟には信元忠重於大の方らがいる。

経歴[編集]

乾坤院にある忠守の墓(右手前)

水野氏はもともと尾張国知多郡緒川城[注釈 4]刈谷城を含む知多郡北部および三河国西部の碧海郡を広く支配する国人領主であった。当時、尾張・三河の国境付近は織田氏今川氏が鎬を削っており、その中で父の忠政は今川方についていたが、兄の信元が跡を継いだ後、織田方となった。また、信元が家督を相続した時には緒川城主となっている。以後、兄と行動をともにしたと考えられるが、天正3年12月(1576年1月)に信元が謀叛の嫌疑によって織田信長に殺害された後、天正8年(1580年)に、末弟の忠重が再び刈谷を与えられるまでの動向は不明である。

天正8年に忠重が旧領に復した際に忠守は緒川城主となった。しかしその後、諸事情により緒川城を退去したとされ、その時期や理由は不明[注釈 5]。なお、忠重は信長の死後、織田信雄豊臣秀吉に仕えたが、忠守がこれに従ったかは不明である。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、退去後は徳川家康に仕えたとある[1]

天正18年(1590年)、徳川家康が関東に入部すると、玉縄城の守備を命じられ、知行を得た[1]。その後、嫡男忠元の所領であった相模国沼目郷(現在の伊勢原市沼目)に隠居し[1][注釈 6]、慶長5年(1600年)に76歳で死去した[1]。墓所は緒川(現在の愛知県東浦町)の乾坤院[1]

嫡男の忠元は幼少から徳川秀忠に仕え、下総山川藩主となり、その子孫は三河岡崎藩肥前唐津藩出羽山形藩となった。

忠守の緒川支配と退去[編集]

天正3年12月(1576年1月)に水野氏の当主であった信元が殺害された後も、その旧領は水野氏が支配していたとされる[6]。また、信元の弟で忠守の兄である忠分は織田信長に従い、天正6年12月(1579年1月)の有岡城の戦いで討死にしている。その後、この水野領は誰が支配したのかは今のところわかっていない。

天正9年1月(1581年)信長は高天神城攻めの援軍を子の信忠に命じているが、この際に大野城主水野佐治や、当時徳川氏に仕えていた刈谷城主水野忠重の他、水野監物(常滑城主の水野守隆)が出陣したとされる[7]。一方でこの時に出陣したのは刈谷衆、緒川衆、大野衆とされる[8]。また、天正13年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康は緒川先方衆の水野分長(忠分の子)に本領安堵と出兵を命ずる文書を出しており、忠重の緒川領への支配は否定されている[9][10]。このため、『家忠日記』の記述のように援軍に緒川衆が出陣していたならば、忠重以外の人物が率いたことになる。また、常滑水野氏の水野監物守隆・守信(河内守)父子と忠守の子監物忠元・守信(右馬允)父子が混同されていた経緯もあり[11]、この時出陣した『信長公記』が言うところの水野監物とは忠守のことではないかと考えられ[12]、信元死後は緒川領を支配していたと思われる。

また、緒川を退去した時期については、天正14年11月20日に水野清六の動向が記述[13]されており、この人物を「忠守」と推測され、この時既に緒川の地を去り、家康が居城していた駿府城下に屋敷を構えていたのではないかとしている[12]。こうしたことから、忠守が緒川を退去した時期は天正13年冬以降であり、その理由は忠重の秀吉への臣従に反対したことであるとされる[14]

系譜[編集]

『寛政譜』では子女についてすべて「母は某氏」と記されている。

補足[編集]

  • 四男の守信は初め戸田姓を名乗り、のち水野に復した。妻は河和水野氏。守信の子孫のうち、本家(金兵衛)は刃傷事件により絶家となるが、別家として、宗家に仕えた家(三郎右衛門)と、尾張藩士として存続した家(藤兵衛)がある。藩主徳川義直の命により、野間大坊(大御堂寺大坊)住職はこの家系、もしくは守信の妻の実家である河和水野家(惣右衛門もしくは内蔵助)から出すことになっていた[19]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『寛政譜』記載の没年と享年からの逆算。
  2. ^ 藤右衛門。別系統の水野氏の人物[3]
  3. ^ 大膳亮。大高城主を務めていた別系統の水野氏の人物[4]
  4. ^ 小河城または小川城とも言う。本稿では緒川で統一する。
  5. ^ 『寛政譜』によれば「そののちゆへありてかの城を立去、東照宮に仕へたてまつり」とある[1]
  6. ^ 隠居ないしは隠居地に家康の意向があったらしく、『寛政譜』の表現では「仰によりて男忠元が領地相模国沼目郷に閑居」[1]
  7. ^ 『寛政譜』では「某」、通称「金蔵」とのみある[15]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『寛政重修諸家譜』巻三百三十三「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.858、『新訂寛政重修諸家譜 6』p.70。
  2. ^ 村田御「乾坤院について」『常滑市民俗資料館友の会だより』第6号、1989年、8頁。 
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』巻三百四十「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.906
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』巻三百三十九「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.898
  5. ^ 『寛政重修諸家譜』巻三百二十八「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.821-823
  6. ^ 「新訂東浦町誌 資料編3」
  7. ^ 『信長公記』
  8. ^ 『家忠日記』
  9. ^ 「新訂東浦町誌 資料編3」358頁
  10. ^ 現存する書状は安中藩除封後、安永7・1778年に家督を継いだ「元風」による写しであり、「分長」拝領とあるのは加筆されたものである(国立公文書館「記録御用所本」水野。新編「東浦町誌」資料編3に収録。358頁)
  11. ^ 「知多郡史 上巻」190-191頁および178-179頁
  12. ^ a b 刈谷市史
  13. ^ 『家忠日記』の天正14年11月20日の記事「水野清六殿被越候 長刀出し候」
  14. ^ 刈谷市史2巻105頁
  15. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻三百三十三「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.859、『新訂寛政重修諸家譜 6』p.71。
  16. ^ 『寛政重修諸家譜』巻三百三十四「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.865
  17. ^ 『寛政重修諸家譜』巻三百三十四「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.868
  18. ^ 『寛政重修諸家譜』巻三百三十四「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.869
  19. ^ 『新訂東浦町誌 資料編3』所収「士林泝洄」36巻丁ノ二および「大御堂寺所蔵水野系図」、『野間町史』(1955年、2001年復刊)所収「野間大坊水野家ヨリ住職累系」

参考文献[編集]

  • 『寛政重修諸家譜』巻三百三十三「水野」
    • 『寛政重修諸家譜 第二輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082719/439
    • 『新訂寛政重修諸家譜 6』
  • 『新訂東浦町誌 資料編3』所収「士林泝洄」36巻丁ノ二および「大御堂寺所蔵水野系図」
  • 『野間町史』(1955年、2001年復刊)所収「野間大坊水野家ヨリ住職累系」

関連項目[編集]