水野勝知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
水野勝知
Mizuno Katsutomo.jpg
時代 江戸時代後期(幕末) - 大正時代
生誕 天保9年2月26日1838年3月21日
死没 大正8年(1919年4月22日
改名 丹羽富以(初名)→水野勝知
別名 監物、将監、蔵人(通称)
墓所 茨城県結城市の孝顕寺
官位 従五位下、日向
幕府 江戸幕府
下総国結城藩
氏族 丹羽氏水野氏
父母 父:丹羽長富、養父:水野勝任 母:松尾氏女
兄弟 丹羽長国稲葉正邦勝知
正室:堀直格の娘
継室:内藤政民の次女(内藤政恒の養女)・作
養子:水野勝寛

水野 勝知(みずの かつとも)は、下総結城藩の第10代藩主。水野宗家15代。

経歴[編集]

天保9年(1838年)2月26日、陸奥二本松藩の第9代藩主丹羽長富の八男として生まれる。文久2年(1862年)11月24日、第9代結城藩主水野勝任の死去に際し、末期養子として家督を相続した。同年12月1日、将軍徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下日向守に叙任する。元治元年(1864年)4月、日光祭礼奉行に就任した。同年7月10日、学問所奉行に就任した。

慶応4年(1868年)3月1日、旧幕府から彰義隊の指揮を任される。当時、藩内は佐幕派と恭順派に分裂していた。藩主の勝知は佐幕派に与し、恭順派は第8代藩主勝進の子の勝寛を新藩主として擁立した。3月26日、彰義隊の一部などを引き連れた勝知は、恭順派から結城城を奪い取った。しかし、同年4月、新政府軍の攻撃を受けて結城城は落城し、勝知は水路から脱出して上総成東や上野山内に潜伏したのち、実家の二本松にまで逃れた。閏4月5日、明治政府は勝知の官位を剥奪し、藩士の入京も禁止とした。5月20日、新政府に捕らえられて、伊勢津藩にお預けになった。明治元年(1868年)9月10日、上総鶴牧藩にお預けとなる。12月7日、明治政府から隠居を命じられる。所領も1000石減封された。

明治2年(1869年)2月24日、勝寛が家督を相続した。同年7月4日、二本松藩にお預けとなる。

大正8年(1919年)4月22日に死去した。享年82。