水沢薫
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 秋田県秋田市 |
生年月日 | 1965年2月18日 |
没年月日 | 2014年1月10日(48歳没) |
身長 体重 |
183 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1986年 ドラフト2位 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴
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この表について
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水沢 薫(みずさわ かおる、1965年2月18日 - 2014年1月10日)は、秋田県秋田市金足出身の元プロ野球選手(投手)。
現役時代は140km/h台の速球とシュートを中心とする投球スタイルだった[1]。
来歴・人物
[編集]秋田商では3年夏に秋田県大会決勝で秋田経大付属に敗れるなど、全国大会への出場はなかった[1]。素質を評価され[1]、高校卒業後は社会人野球の河合楽器に進んでいる。1986年は都市対抗野球で完投勝利、日本選手権では1回戦の対日本生命戦で田島俊雄に投げ勝つなど、ベスト8進出に貢献した。同年のドラフト会議で読売ジャイアンツ、阪神タイガース、ロッテオリオンズの3球団から2位で指名を受け、巨人が交渉権を獲得。担当スカウトは中村和久で、契約金と年俸それぞれ5500万円、600万円(いずれも推定)、背番号は19で入団が決まった[2]。
1年目の1987年にはイースタン・リーグで8セーブポイントを挙げ、西本和人とともにファームの最優秀救援投手のタイトルを獲得した[3]。しかしその後は故障などが続き、一軍での登板がないまま1992年に現役を引退。日体大での研修期間を経て、1995年から2002年と2004年および2006年は二軍、2003年と2005年は一軍でトレーニングコーチを務めた[4]。2008年からは球団運営部一軍監督付となり、原辰徳監督のサポートに従事し、原も水沢を信頼した[5]。
2013年に体調不良のため現場から退き[6]、2014年1月10日、肝不全のため48歳で死去した[6]。戒名は、永照院薫峰天球居士[7]。告別式では原が弔辞を読んだ。
家族は妻と2女。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]- 一軍公式戦出場なし
背番号
[編集]- 19 (1987年 - 1988年)
- 57 (1989年 - 1992年)
- 100 (1995年)
- 90 (1996年 - 1999年、2006年)
- 86 (2000年 - 2005年)
脚注
[編集]- ^ a b c 読売新聞、1986年12月6日付朝刊、P.17
- ^ 読売新聞、1986年12月12日付朝刊、P.17
- ^ 読売新聞、1987年10月2日付朝刊、P.17
- ^ スポーツ報知 巨人 監督・コーチングスタッフ
- ^ “元巨人投手・水沢薫さん死去 48歳、肝不全”. サンスポ. (2014年1月11日) 2020年2月21日閲覧。
- ^ a b 元巨人水沢薫氏が死去 原監督を支える2014年1月10日 nikkansports.com
- ^ [1]