水本勝己
| 広島東洋カープ 二軍監督 #89 | |
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2015年8月29日 阪神鳴尾浜球場にて | |
| 基本情報 | |
| 国籍 |
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| 出身地 | 岡山県倉敷市 |
| 生年月日 | 1968年10月1日(50歳) |
| 身長 体重 |
180 cm 102 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 捕手 |
| プロ入り | 1989年 ドラフト外 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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水本 勝己(みずもと かつみ、1968年10月1日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)、プロ野球指導者。
現在は、広島東洋カープ二軍監督。
経歴[編集]
倉敷工業高では強打の捕手として鳴らし、3年次の1986年に夏の甲子園出場。1日目第3試合の1回戦・対秋田工業高戦において1-11で敗れて初戦敗退[1]。
高校卒業後は、社会人野球の名門・松下電器に進み、潮崎哲也とバッテリーを組んで3年連続で都市対抗野球大会に出場した[1]。
1989年秋に、倉敷工業高の先輩である片岡新之介を頼って広島東洋カープの入団テストを受験し合格、同年オフにドラフト外で入団した。
しかし、出場機会に恵まれず一軍での試合出場はなし。二軍での試合出場も合計で39試合にとどまり、1991年のシーズン終了後にわずか2年の早さで現役を引退した[1]。
引退後は、広島のブルペン捕手として長年チームを陰で支えた。広島在籍18年目の2007年シーズン途中、ブルペンコーチ補佐(ブルペン捕手兼務)に就任。2011年、事実上の三軍監督となる「三軍統括コーチ」に就任した。2013年から2015年まで二軍バッテリーコーチを務め、2014年9月に二軍監督の内田順三が翌年から巨人の二軍打撃コーチに就任するため辞任した際には、秋季教育リーグのフェニックス・リーグで二軍監督代行として指揮を執った[2]。2015年3月10日に一軍総合コーチの永田利則が体調不良のため入院した際には、その間の代役を二軍監督の高信二が務め、水本が二軍監督代行を務めた[3]。
2016年、前任の高が一軍ヘッドコーチに就任したことに伴い二軍監督に昇格。就任1年目の2016年はウエスタン・リーグ5連覇を達成したソフトバンクから24ゲーム差の4位と低迷したが、就任2年目の2017年には中日、ソフトバンクとの熾烈な優勝争いを制して1991年以来26年ぶりのウエスタン・リーグ制覇に導き、10月7日にKIRISHIMAサンマリンスタジアム宮崎で行われたファーム日本選手権では2-5で巨人を破り、巨人・内田二軍監督との「師弟対決」を制して初のファームチャンピオンへと導いた。
人物[編集]
投手陣から信頼され、特に佐々岡真司と仲が良く佐々岡のお気に入りだったらしい。
市民球場での試合前に、立ち上がりの悪い投手や雰囲気に飲まれるタイプの投手には、スタンド下のブルペンからグランドへ移動して、緊張をほぐすなど気をつかっている。
打撃不振の金本知憲や新井貴浩(当時広島在籍)の早出特打ちにはいつもアドバイスを送り、投手陣だけでなく、野手陣からの信頼も厚い。
チーム関係者からは曲がったことの嫌いな人間で、 若手にもベテランにも平等に接することが出来る人物と評した[4]。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
- 一軍公式戦出場なし
背番号[編集]
- 64 (1990年 - 1991年)
- 100 (1992年 - 2000年)
- 89 (2007年途中 - )
脚注[編集]
- ^ a b c 【野球】カープ2軍を26年ぶりVに導いた指揮官の正体は・・・ デイリースポーツ 2017年10月7日
- ^ “広島の内田2軍監督が辞任 水本2軍コーチが代行”. 産経ニュース. (2014年9月24日) 2014年10月4日閲覧。
- ^ “広島・永田1軍総合コーチが体調不良で入院、高2軍監督が代役”. スポーツニッポン. (2015年3月10日) 2015年3月10日閲覧。
- ^ 首位広島の陰に現役時代実績ゼロ2軍監督の存在 デイリースポーツ 2017年5月5日
関連項目[編集]
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