水揚げ (花街)

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水揚げとは江戸時代から売春防止法施行以前の時代、芸妓遊女が初めて客と寝所にて接することであった。そのとき処女を喪失することになっていた。

その語の由来には

  • 商人が荷物を舟より下ろして初めて店頭に出すことを「みずあげ」と言ったことにちなんだ
  • 万葉時代には処女を「未通女」(おとめ)と呼んだので、未だ男性に逢わない若い女性を「揚げる」ため、「未通揚げ」

等様々な説がある。

遊女の場合禿(かぶろ)が新造を経て一人前のお披露目をした後初めて客と同衾することであった[1]

遊女は一人前となり事実上の業務スタートとなるが(お客をとるようになる)、芸妓の場合はそれまでの年少芸妓、見習い芸妓の立場から、一人前の芸妓になる通過儀礼的な側面が強かった。それに続いて特定の旦那を持つ、という段階を踏むことが多かった。

水揚げに選ばれる客は、その道に熟達した通人(つうじん)のなかから特に財力のゆたかな者が、抱主の依頼に応じたり、その承認のもとに自薦したりしてこの任に当たるのが常であった。

現在、遊女、それに続いての娼妓という存在自体がないが、芸妓は、初めて旦那を持つ場合が(といっても、現代ではほとんどそのようなことはない)事実上の「水揚げ」とされる場合がある。その起源は、初夜権に由来し、民間の類似の風習、その遺風とみなすべき行事は中山太郎『売笑三千年史』にある。また、水祝いと関係があるらしい。

京都の事例[編集]

京都の舞妓は、水揚げが済むと、髪型をそれまでの割れしのぶからおふくに結い替えた[2]。水揚げ後の舞妓は、おふくから、勝山奴島田、舞妓最後の髪型である先笄を経て、芸妓となった[3]

現在の、京都の舞妓の水揚げは、色事抜きで、割れしのぶからおふくへと髪型を替える、事実上の髷替えとされることがある[4]

また、舞妓から芸妓になる襟替えにも、色事はともなわない、と、されることがある[5]

吉原の事例[編集]

体を売ることと、芸を売ることが厳しく峻別されていた吉原では、芸者が一人前の芸者になるにあたって、水揚げされることは無かった[6]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「傾城の新艘を仕立てて初めて売り出すことをいふ。買い始める人を水上げ客といふ。この名、新艘の女郎を舟に比していひたることなり」畠山箕山『色道大鑑』
  2. ^ 三宅小まめ 森田繁子『祇園うちあけ話(PHP文庫、2004年)』69-70頁、杉田博明『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳(新潮社、平成3年)』61 頁、相原恭子『京都 舞妓と芸妓の奥座敷(文春新書、平成13年)』184-185頁、安田武「祇園随想」『太陽 '72 6月号(平凡社、1972年所収)』87頁、臼井喜之介 熊谷康次郎 稲岡傳左衛門「座談会 今は昔 祇園の夜話」『太陽 '72 6月号(平凡社、1972年)』98頁、「髷替え」宮川町小糸『宮川町 芸妓さん舞妓さんのページ』 。ちなみにおふくは芸妓では無く、あくまでも舞妓の髪型である。南ちゑ『日本の髪型(紫紅社、昭和56年)』108頁、京都美容文化クラブ『日本の髪型 伝統の美 櫛まつり作品集(光村推古書院、平成12年)』226-227頁、京都上七軒市まめ『舞妓のお作法(大和書房、2007年)』56頁、杉田博明『京の花街 祇園(淡交社、2003年)』65頁。また、12・3歳にして水揚げを経験していた舞妓もいたという(野坂昭如「一力茶屋宿酔夢」『太陽 '72 6月号((平凡社、1972年))』92頁)。
  3. ^ 相原恭子『京都 舞妓と芸妓の奥座敷(文春新書、平成13年)』184-185頁。溝縁ひろし「舞妓さんの持ち物と髪型」『祇をん市寿々(小学館、2000年)』、京都上七軒市まめ『舞妓のお作法(大和書房、2007年)』56頁、岩崎峰子『芸妓峰子の花いくさ(講談社、2001年)』170-171、192頁、杉田博明『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳(新潮社、平成3年)』62頁、杉田博明『京の花街 祇園(淡交社、2003年)』65頁、「衿替え」宮川町小糸『(宮川町 芸妓さん舞妓さんのページ』、参照。
  4. ^ 岩崎峰子『芸妓峰子の花いくさ(講談社、2001年)』170-171頁。なお、「旦那について」宮川町小糸『宮川町 芸妓さん舞妓さんのページ』では、初めて旦那を持つことを水揚げだと定義している。
  5. ^ 桐木千寿『愛され上手になる祇園流・女磨き(講談社、2007年)』113頁
  6. ^ 福田利子『吉原はこんな所でございました(教養文庫、1993年)』96頁、みな子『華より花(主婦と生活社、2009年)』110-112頁、参照。