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比婆山久米神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
熊野神社

本殿
所在地 島根県安来市伯太町横屋844-1
位置 上ノ宮北緯35度18分55.2秒 東経133度14分34.5秒 / 北緯35.315333度 東経133.242917度 / 35.315333; 133.242917 (比婆山久米神社(上ノ宮))座標: 北緯35度18分55.2秒 東経133度14分34.5秒 / 北緯35.315333度 東経133.242917度 / 35.315333; 133.242917 (比婆山久米神社(上ノ宮))
下ノ宮北緯35度19分15.4秒 東経133度14分57.3秒 / 北緯35.320944度 東経133.249250度 / 35.320944; 133.249250 (比婆山久米神社(下ノ宮))
主祭神 伊邪那美尊
社格 式内社(小)
本殿の様式 大社造(上ノ宮)神明造(下ノ宮)
主な神事 伊邪那美祭(5月6日
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陰陽竹 [1]- 天然記念物に指定されている
霊石と言われる玉抱石
イザナミが眠ると古事記に記された島根県安来市伯太町横屋にある比婆山。珍しい柱状節理が顕著に見られる

比婆山久米神社(ひばやまくめじんじゃ)は島根県安来市比婆山鎮座する熊野神社の通称で、山頂の上の宮(奥宮)と山麓にある下の宮(里宮)から成る。山頂の上の宮社殿脇には国産み神話、神産み神話のイザナミ御神陵と伝わる古墳があり、古来より子授け・安産の神として信仰されている。上下両宮ともに現在は熊野神社社号神社庁へ登録されており、出雲國風土記意宇郡)に記載の『久米社』及び延喜式神名帳出雲國意宇郡)に記載の『久米(クメノ)神社』の比定社とされている。

歴史

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創建は不詳だが、多くの神々を産んだイザナミの神が火の神カグツチを産む際に陰部に大やけどを負ったっことが原因で亡くなり、その亡骸を比婆山に埋葬したという古事記の神産み神話に起因する神奈備(ヤシロ)とされている。また、江戸時代の地誌『雲陽誌[2]』には『峯山三所権現』と記載されており、かつては熊野信仰の一大聖地でもあった。

和銅5年(712年)完成の古事記上巻に『故(カレ)、其の神避りし所(カムサリシトコロ)伊邪那美の神は 出雲の国と伯伎(伯耆)の国の堺 比婆の山に葬る也』と記されている。

  • 天平5年(733年)完成の出雲國風土記に記載(久米社)
  • 延長5年(927年)に成立した延喜式に記載(久米神社)

― 奥 宮

― 里 宮

祭神

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伝説・奇勝

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比婆山には、様々な伝説が存在し、地元では類を見ないパワースポットとしても人気が高い。祭神伊邪那美尊は、子授け・安産の神として崇敬者が多く、奥宮への参拝にはかなり困難な、1kmほどの坂道があり、ここを辿る妊婦が「苦しい」「辛い」などの語を発すると、難産すると言い伝えられ、身重なる婦人は、殊更に平気を装って参詣するのが習わしとされる。御陵峰はかつては禁足地として入山することができなかった。そのため隣接する社詞峰か、比婆山と対峙する山の上の台から遥拝していたと言い伝えられている。

陰陽竹(いんようちく)

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1941年に島根県の比婆山で発見さた[1][3]。山の中腹に繁茂している。伊邪那美之尊が出産のため、比婆山に上がった時に杖にした竹が、そのまま根を下したものだと言う伝説があり、この竹を杖にすれば、安産をなすと言われている。ある時、塚に小竹が繁っているため、牛馬を牽いてきてこの塚の草などを牛馬に食わせようとしたが、塚のあたりへは牛馬が寄りつかず、与えても食べなかった。また、この竹を杖に突いて行くと蛇の類が寄りつかず、蛇の居る所へ杖を突き立るとすくんで動けなくなるという伝説がある。陰陽竹はここにしか繁殖していない珍しい竹で、男竹に女性的なササがついているため「陰陽竹」と名付けられた。今まで学会で竹の茎とササの葉の結合体を説明する決定論が出ず、四回学名が変わったが、昭和四十六年夏、花が咲き、学名を研究してきた丸山巌氏・岡村はた氏によって業平竹とササ両属の雑種で、進化の中間過程にある「雑種起源」として「ヒバノバンブーサ・トランキランス・マルヤマ・オカムラ」と命名された。学問上貴重な竹であり、保護しないと絶滅のおそれがあるとして今は県の天然記念物に指定されている。勝手に持ち帰る事は禁止されている。

玉抱石(たまがかえいし)

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玉抱石には神気がこもっていると言われ、子供に恵まれない人が石に触れると霊気が授かり、伊邪那美之大神に祈願すると子供に恵まれて安産であると言い伝えられている。石に空いた穴はそこから飛び出してお腹の中に入り、玉のような元気な赤子になって生まれてくるという伝承がある。

ちんちん井戸

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昔はちんちん音がして水が湧いていたと言われ、現在は枯れている。ちんちん井戸の御神水を飲むと母乳が出ると言われた。また産湯に使うと、その子は一生元気で健やかに育つと言い伝えられている。

玄武岩柱状節理

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近代に入り比婆山南東斜面において大規模な砕石事業開発が行われた。この結果この比婆山が柱状節理からなる丘状台地であることが判明した。この節理はマグマの冷却面と垂直に発達し組成したものであり、六角柱状のものが多く、平成に入り事業は廃止されたが、掘削された壁面は六角柱状節理が顕著に見られる貴重な場所となっている。

施設

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社殿の後方に、高さ一丈五尺、幅六間四方の封土があって、内廟は石瑞垣を環らし、外廟は木柵が設けてある。柵内は松樹森々として繁茂している。戦国時代の武将尼子経久は比婆山の崇敬が殊に厚く、富田[4]より道路を通じ、比婆山に奉行を置いて統括、山嶺に本社三殿及び四間華衣、鐘楼、仁王門を造営し、神領として日次、横屋、峠の内より十数丁歩の土地を附し、神主一人、神官二人、社家五人を置き二社一寺五坊を手厚く保護していた。信仰の山であると同時に冨田城の兵站基地としても重要視していた。尼子氏最盛期の尼子経久は、馬に乗ってこの道を通り参詣したと伝えられている。又、尼子時代末期冨田城籠城の際は、武器兵糧などの輸送に重要な役割を果たしたと伝えられている。しかし、戦乱の兵火により全て荒發に帰した。江戸時代に入り、寛文四年、松平氏が支封を母里に置くや、社領米を附し、社殿を造営し、寛文十三年、社殿を山麓に移した。その後再び山上に社殿を建立して、今日に及んでいる。

文化財

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  • 陰陽竹

祭事

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脚注

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  1. 1 2 インヨウチク/いんようちく/陰陽竹”. 庭木図鑑 植木ペディア. 2026年1月14日閲覧。
  2. 日本歴史地名大系,世界大百科事典内言及. 雲陽誌(うんようし)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2026年1月14日閲覧。
  3. 陰陽竹(インヨウチク)はどんな植物? わかりやすく解説 Weblio辞書”. www.weblio.jp. 2026年1月14日閲覧。
  4. 月山富田城 - 尼子経久の居城

外部リンク

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