比企朝宗

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比企 朝宗(ひき ともむね、生没年不詳平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。比企藤内朝宗とも。源頼朝乳母である比企尼に連なる比企氏の一族。内舎人に任ず。

比企氏の系図上は比企遠宗と比企尼の実子、または兄弟とされるが、尼との関係や尼の夫の実名については疑点が多く正確な続柄は不明。妻(妾)に北条政子の官女・越後局(文治4年1月22日、男児出産記録あり)。娘に北条義時の室となった姫の前がいる[1]

生涯[編集]

比企氏の家督は比企尼の猶子となった比企能員が継承し、その兄弟にあたる朝宗は能員と共に頼朝に臣従して治承・寿永の乱に参加。何度か頼朝の使いとして上洛している。木曾義仲滅亡後、北陸道守護の前身である勧農使として派遣され、若狭国越前国越中国越後国の庄を沙汰している記録が見られる。(勧農使は建久2年(1191年)以前に免じられている)元暦元年(1184年)8月、源範頼平氏追討軍に従軍。文治2年(1186年)頼朝と対立した源義経郎党を探索、文治5年(1189年奥州合戦に従軍。

建久3年(1192年)、美貌であった娘の姫の前が北条義時に見初められて妻となり、義時の次男朝時、三男重時を産んでいる。のちに孫の朝時が越中・越後国の守護となり、母が比企一族とされる島津忠久が越前国の守護となっている。建久5年(1194年)2月、北条泰時元服式に出席。同年12月、越前国での領地横領の訴えを起こされている記述を最後に、朝宗は『吾妻鏡』の記録から消えている。

建仁3年(1203年)9月、比企能員の変が起こり、比企一族は朝宗の聟である北条義時率いる大軍に攻められて滅亡するが、殺害された一族の中に朝宗の名は見られない。

脚注[編集]

  1. ^ 細川涼一は、比企朝宗は比企尼の実子であるが、頼朝に仕えた頃には既に高齢で男子に恵まれなかったために比企氏の次期惣領には相応しくないとみられたのではないかと推測し、越後局が生んだ男子も能員が惣領を継承した後の子であるため後継ぎにはなり得なかったとしている(細川涼一「河越重頼の娘」(初出:『京都橘大学女性歴史文化研究所紀要』16号(2008年3月)/所収:細川『日本中世の社会と寺社』(思文閣出版、2013年3月) ISBN 978-4-7842-1670-3)。

関連項目[編集]