段世
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段 世(だん せい、生没年不詳)は、モンゴル帝国(大元ウルス)支配下の雲南における最後の大理総管。
概要
[編集]第12代大理総管の段明の息子にあたる。このころ、中国大陸の大部分はほとんど明朝が支配し、南方では唯一雲南のみモンゴル王族の梁王バツァラワルミの支配が残る情勢にあった[1]。
1381年(洪武14年)9月より征南将軍傅友徳率いる明軍が雲南に侵攻し、段明が朝貢を申し出たものの傅友徳に拒絶され、征南左副将軍藍玉・征南右副将軍沐英らの侵攻を受けるに至った。これを受けて、段世は険要の地である下関の守りを固めたが、別働隊である都督胡海洋が点蒼山の崖上から下関を威嚇し、大理兵が動揺した隙を突いて沐英が突撃したことによって下関は陥落した。さらに、胡海洋率いる部隊も崖上から下って本隊とともに大理兵を挟撃したことにより、1382年(洪武15年)閏2月23日に大理兵は大敗を喫して大理城は占領された[2]。これにより、大理総管による支配は終わりを迎えることとなる[3]。
この一戦によって段世は明軍の捕虜となり、1383年(洪武16年)2月26日に雲南右丞観音保・参政劉車車不花ら160人とともに明の首都の應天府に送られた[4]。1384年(洪武17年)4月には父の段明とともに、斉王朱榑に仕えるよう命じられている[5]。
脚注
[編集]- ^ 林 1996, p. 25.
- ^ 『明太祖実録』洪武十五年閏二月癸卯(二十三日)、「征南左副将軍永昌侯藍玉・右副将軍西平侯沐英進兵攻大理、克之。大理城倚点蒼山、西臨洱河為固。土酋段世聞王師且至、聚衆扼下関以守。下関者、南詔皮羅閣所築龍尾関是也、号為険要。玉等至品甸、遣定遠侯王弼以兵由洱水東趨上関、為犄角勢、自率衆抵下関、造攻具、遣都督胡海洋夜四皷由石門間道渡河、繞出点蒼山後、攀木援崖而上、立我旗幟。昧爽、我軍抵下関者望之、踴躍讙譟、酋衆驚乱、英身先士卒、策馬渡河、水没馬腹、将士随之莫敢後、遂斬関而入。山上軍望見、亦下攻之。酋兵腹背受敵、遂潰、抜其城、段世就擒。乃分兵取鶴慶、略麗江、破石門関、下金歯。由是車里・平緬等処相率来降、諸夷悉平」
- ^ 林 1996, pp. 25–26.
- ^ 『明太祖実録』洪武十六年二月庚子(二十六日)、「征南将軍潁川侯傅友徳遣人送故元雲南右丞観音保・参政劉車車不花及酋長段世等一百六十人至京、献馬一百七十匹。賜鈔有差、仍各賜其家属衣服。尋以観音保為金歯指揮使、賜姓名『李観』」
- ^ 『明太祖実録』洪武十七年四月己巳(二日)、「詔以故元雲南平章段世・宣慰段明随侍斉王、給千戸禄」
参考文献
[編集]- 林謙一郎「元代雲南の段氏総管」『東洋学報』78、1996年
- 奥山憲夫「洪武朝の雲南平定戦 (一)」『東方学会五十周年記念 東方学論集』、1997年
- 奥山憲夫「洪武朝の雲南平定戦 (二)」『史朋』 第28号、1996年