歩練師

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歩 練師[1](ほ れんし、? - 238年)は、三国時代の大帝孫権の夫人(側室)。徐州臨淮郡淮陰県の人。皇后位を追贈された。子に孫魯班孫魯育。同族に歩騭歩協歩闡らがいる。

生涯[編集]

前漢の淮陰侯の末裔とされる。後漢の末に母親に連れられ廬江に移住した。建安4年(199年)12月に廬江が孫策に破られると、母娘共に江南へ移った。

容貌の美しさから孫権に愛され、その寵愛ぶりが建安17年(212年)頃より後宮中第一であった[注釈 1]。孫権との間に2人の娘を産んだ。

孫権は先妻である徐夫人と生別した後、10年間誰も嫡妻にすることはなかったが、王位に就くと、練師を王后にしたいと考えた。さらに黄龍元年(229年)、帝位に就いた時には皇后にしたいと考えた。一方で皇太子の孫登や臣下たちはみな、徐氏を皇后にすべきだと進言した。結局孫権は曖昧になり、また10年余り経っても皇后を立てることがなかった[注釈 2]

赤烏元年(238年)死去。2月に皇后を追贈された[1]。閏10月1日に策命が下され、先王の宗廟に配享された。蔣陵に葬られた。

小説『三国志演義』には登場しない。

人物[編集]

嫉妬をしない性格で、他の女性たちを薦めたため、孫権からも長く大切にされた。側妃の身分でありながら、宮中では歩夫人のことを皇后と呼び、親戚の者たちが上奏する際も彼女を中宮(皇后のいる宮殿、転じて皇后自身を指す)と呼んだ。一方で徐夫人と同じように皇太子に衣服を贈ることがあるが、徐夫人と同程度の敬意を得られなかった[2]

参考文献[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『呉志』において、「徐氏以妒廢處呉而歩夫人最寵」という記述があり、これからは建安17年の出来事となる。
  2. ^ 実際に歩氏の立后については孫権本人の積極的な行動は見られなかった。ただし孫権が徐氏の立后を拒否する姿勢は「孫登伝」から見ることができる。

出典[編集]

  1. ^ a b 『建康実録』
  2. ^ 『三国志』呉書 孫登伝