武田信貞

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武田 信貞(たけだ のぶさだ、弘治3年(1557年[1] - 寛永3年(1626年6月23日[1])は、戦国時代の武将、江戸時代初期の旗本。父は油川信次もしくは武田信玄の五男・仁科盛信(信盛)[1]。幼名は勝松、通称源兵衛[1]。『寛政重修諸家譜』によれば、妻は大井虎昌の娘で、信貞の子には信忠(信成)がいるという[2]。別称に油川信貞。

父とされる油川信次は甲斐守護・武田信昌の子・油川信恵の子孫で、信恵が永正5年(1508年)に滅亡した後に生き残った信友の孫にあたる[2]。『寛永諸家系図伝』によれば、信次は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて討死したとされるが、仁科盛信の子孫が作成した正徳2年(1712年)の「八王子信松院江納候由緒之控」では長篠合戦以降も存命し、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後に仁科盛信の次男・信貞を保護したとする異説を記している[2]

武田氏滅亡後は天正壬午の乱を経て甲斐を領した徳川家康に仕官し、知行38貫文を安堵された[1]関ヶ原の戦いにも東軍に属して参陣し、大坂の陣では伏見城在番を務めたという[1]。寛永2年10月には武蔵国都筑郡上総国埴生郡武射郡に350石を与えられたという[1]。『寛永伝』によれば寛永3年に70歳で死去したという[1]

信貞の没年に関して『寛政重修諸家譜』では享年を「今の呈譜五十五」と記し、これは武田奉行人の浄円と法名が一致することから、同一人物である可能性が指摘される[1]。浄円は武田家の奉行人で、長篠合戦以降に駿東郡東部において活動している所見が見られる[3]。浄円が信貞と同一人物である場合には出家していたことになり、信次の嫡男も長篠合戦で戦死し、仏門に入っていた浄円が還俗して家督を継いだ経緯などが考えられている[4]

また、「八王子信松院江納候由緒之控」の所蔵者は家伝文書と菩提寺の長竜寺過去帳を基に系譜を作成しており、これによれば信貞は寛永3年6月28日に享年50で死去し、法名は「活巌院殿相心浄円居士」としており、命日は数日異なっているものの法名の「浄円」が共通することが指摘される[5]。また、寛政3年に死去したとする説から生年は天正5年となり、仁科盛信と親子としては世代的に矛盾がないことが指摘される[2]

子孫は明治時代兵庫県に移住し、血を受け継いでいる。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 丸島(2015)、p.52
  2. ^ a b c d 丸島(2015)、p.53
  3. ^ 丸島(2015)、p.383 - 384
  4. ^ 丸島(2015)、p.384
  5. ^ 丸島(2015)、pp.52 - 53

参考文献[編集]

  • 北澤繁樹『仁科氏』(東京図書出版会、2010年)
  • 丸島和洋「油川信貞」「油川信次」「浄円」 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年