武水別神社
武水別神社 | |
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(右から)勅使殿、拝殿、本殿 | |
所在地 | 長野県千曲市八幡3012 |
位置 | 北緯36度31分10.08秒 東経138度06分10.71秒 / 北緯36.5194667度 東経138.1029750度座標: 北緯36度31分10.08秒 東経138度06分10.71秒 / 北緯36.5194667度 東経138.1029750度 |
主祭神 | 武水別大神 |
社格等 |
式内社(名神大) 信濃国四宮 旧県社 別表神社 |
創建 | (伝)第8代孝元天皇年間 |
本殿の様式 | 流造 |
別名 | 八幡宮 |
例祭 | 9月15日 |
主な神事 | 大頭祭(新嘗祭、12月10日-14日) |
地図 |
武水別神社(たけみずわけじんじゃ)は、長野県千曲市八幡にある神社。式内社(名神大社)で、信濃国四宮[1]。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「八幡宮」。現在も「八幡(やわたまたははちまん)さま」「八幡神社(やわたじんじゃ)」の通称がある。
祭神[編集]
主祭神
相殿神
- 相殿神は次の3柱で、総じて八幡神にあたる。
歴史[編集]
概史[編集]
創建年代については社伝によると、第8代孝元天皇の時代に鎮祭されたという[3]。
国史での初見は貞観8年(866年)で、無位から一躍して従二位の神階奉授を受けている。また延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では信濃国更級郡に「武水別神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。ただしこれらが当社に比定されるに至る根拠は確かではなく[4]、他の論社として桶知大神社(長野県長野市大岡丙)が挙げられている。
武水別神社一帯は平安時代末期より石清水八幡宮の荘園(小谷之荘)となっており、安和年間(968年-970年)に石清水八幡宮から八幡神(相殿の3柱)が勧請されたと伝える。八幡神は源氏の氏神としても知られ、武水別神社はこの地方随一の八幡宮として広く武門の崇敬を受けた。また木曾義仲が祈願したと伝えられる[注 1]。
建武2年(1335年)の中先代の乱では武水別神社神官家の四宮氏が保科氏、関屋氏と共に船山守護所を襲撃(青沼合戦)し鎮圧された。これにより隆盛時には地頭と郡司をも兼ねたと云われる四宮氏は滅び、本八幡の地にあった社殿は焼かれたため現在の地に移転再建されたと伝えられている。
文明10年(1448年)連歌師飯尾宗祇が姨捨山の月見に訪れた際に時の神官邸で行われた連歌会に参加していたとされる。また文明16年(1484年)には室町幕府高官だった蜷川貞相が訪れた記録も残されている。
川中島の戦い時の上杉謙信の勧請文などが残されている。そして武田信玄はこの地に本陣を構えたとも伝えられている。
慶安元年(1648年)には、江戸幕府から朱印地200石を与えられた[3]。
明治元年(1868年)神仏分離令。
明治に入り、それまで別当寺の支配下で称していた「八幡宮」から「武水別神社」の社名に復した。また、近代社格制度では当初郷社に列したが、明治41年(1908年)に県社に昇格した[3]。
なお、1939年に軍用馬育成のため施行された種馬統制法により日本在来種の木曽馬の種馬が廃用処分になった際、同神社の神馬として使役されていた「神明号」は処分を免れた[5]。同馬は1950年に民間へ払い下げられ、木曽馬登録事業の1号馬として種雄馬になり、同種の血統復元に貢献した。
神階[編集]
境内[編集]
18,896平方メートルの社地には、社叢としてケヤキ・スギを主として20数種が生育し、その数は400本を超える。老木も多く、「武水別神社社叢」として長野県指定天然記念物に指定されている。
南北約280m東西約70mの敷地は室町時代初期と考えられる当地への移転再建当初は正方形であったが東側を千曲川による、しばしばの洪水に削られて現在見る長方形になったと伝えられている。寛永頃の作成と見られる松田家文書の中に正方形に描かれた敷地の図面が最近発見された。
現在の社殿の多くは天保13年(1842年)の火災ののちに建てられたものである。本殿は、諏訪出身の立川和四郎(2代目)によって嘉永3年(1850年)に完成した[3]。拝殿は立川和四郎の後見の下、峰村弥五郎により安政3年(1856年)に完成[3]。なお、天保13年の火災を免れた社殿として摂社高良社の本殿がある。
別当寺の更級八幡神宮寺は顕光寺・善光寺・津金寺・光前寺と共に天台宗信濃五山の1つとされていたが、明治の廃仏毀釈の際に廃寺となった(月見の寺で名高い姨捨の長楽寺は江戸時代末の善光寺道名所図会にはこの神宮寺の支院と説明されていた)。それまではこの神宮寺僧侶と神社神主によって全ての祭祀を共に行い、境内南半分に仏供所、高良社の向かい側に如法堂、現在の手洗場付近に鐘楼、東側の現在の総代開館には三重の塔があったと伝える。神宮寺廃止後の仏像仏具は秘密裏に上山田の東国寺に移されて現存。釈迦堂は解体して筏に組み、千曲川を下り笹崎で陸揚げして土口の正応寺本堂として再建。文書類については大雲寺に移されたが、その後散逸したという。
摂末社[編集]
摂社[編集]
- 高良社(こうらしゃ)
末社[編集]
祭事[編集]
年間祭事[編集]
武水別神社で行われる祭事は次の通り。特に、祈年祭(3月15日)、例大祭(9月15日)、大頭祭(新嘗祭、12月10日-14日)の3祭は「三大祭」と称される[6]。
太字は三大祭[7]。
- 毎月
- 月次祭 (1日、5日、28日)
- 卯の日祭 (卯の日)
- 1月
- 歳旦祭 (1月1日)
- 御田植祭 (1月5日)
- 越年祭 (1月15日)
- 2月
- 節分祭 (2月節分の日)
- 紀元節祭(建国記念祭) (2月11日)
- 3月
- 祈年祭 (3月15日)
- 初卯講祭 (旧暦2月初卯の日)
- 4月
- 日岐目講社祭 (4月中旬)
- 春季祭 (4月28日)
- 6月
- 大祓式 (6月30日)
- 7月
- 柏葉祭 (7月15日)
- 9月
- 八重注連祭 (9月1日)
- 仲秋祭 (9月14日)
- 例大祭 (9月15日)
- 秋季祭 (9月24日)
- 11月
- 明治節祭 (11月3日)
- 12月
- 釜清め神事 (12月3日)
- 大頭祭(新嘗祭) (12月10日-14日)
- 天皇誕生祭 (12月23日)
- 大祓式、除夜祭 (12月31日)
大頭祭[編集]
12月10日から14日に行う新嘗祭は、「大頭祭(だいとうさい)」と通称される。祭は5人の頭人(とうにん)を中心に進行し、その三番頭を「大頭」と呼ぶことが祭の名前の由来である。歴代の頭人の氏名を記した「御頭帳」では、最古は文禄元年(1592年)にまで遡っており、400年以上続く祭とされ、国の選択無形民俗文化財に選択されている。
文化財[編集]
選択無形民俗文化財(国選択)[編集]
- 武水別神社の頭人行事 - 昭和61年12月17日選択[8]。
長野県指定文化財[編集]
- 長野県宝(有形文化財)[9]
- 摂社高良社本殿(建造物) - 室町時代。昭和50年7月21日指定。
- 銅製釣燈籠(工芸品) - 室町時代。昭和45年4月13日指定。
- 天然記念物[9]
- 武水別神社社叢 - 昭和40年2月25日指定。
- 史跡[9]
- 武水別神社松田家館跡 - 中世。現在の所有者は個人。平成18年4月20日指定。
なお神官松田家の建物のうち、松田家住宅主屋が平成16年(2004年)11月22日に、松田家斎館が平成26年(2014年)2月20日にそれぞれ長野県宝(建造物)に指定されていたが[9]、いずれも平成29年(2017年)9月6日に焼失し、平成30年(2018年)2月13日に指定解除されている[10]。
千曲市指定文化財[編集]
- 有形文化財[9]
- 武水別神社神官松田邸 13棟(建造物) - 江戸時代から明治時代。現在の所有者は千曲市ほか。平成15年2月28日指定。
- 伎楽面 2面(彫刻) - 金剛面1面、力士面1面の2面。平安時代から鎌倉時代頃。昭和53年3月24日指定。
- 獅子面 1面(彫刻) - 鎌倉時代。昭和53年3月24日指定。
- 金銅製六角釣燈篭(工芸品) - 江戸時代。昭和48年3月15日指定。
現地情報[編集]
所在地
周辺
脚注[編集]
注釈
- ^ 『参考源平盛衰記』養和元年(1181年)6月25日(14日とも)に「八幡社ヲ伏拝ミ」とある。ただし、この「八幡社」が武水別神社と同一かは明らかではない (武水別神社(平凡社) & 1979年)。
出典
参考文献[編集]
- 神社由緒書
- 「武水別神社」『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』平凡社、1979年。ISBN 4582490204。
- 林幸好「武水別神社」(谷川健一 編『日本の神々 -神社と聖地- 9 美濃・飛騨・信濃』(白水社))
関連項目[編集]
- 桶知大神社(長野県長野市) - 式内社「武水別神社」の別の論社。
- 青沼合戦(中先代の乱)
- 四宮氏
- 四宮荘
- 小谷荘
- 社宮司遺跡