武元衡

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武 元衡(ぶ げんこう、乾元元年(758年) - 元和10年6月3日815年7月13日))は、中国宰相詩人は伯蒼。河南府緱氏県(現在の河南省洛陽市偃師区の南)の出身。玄祖父は武士逸(武則天の伯父)。高祖父は武仁範。曾祖父は武載徳。祖父は武甄(字は平一)。父は武就。

略歴[編集]

徳宗建中4年(783年)の進士。徳宗に才能を認められ、比部員外郎・右司郎中・御史中丞を歴任。順宗朝では権臣の王叔文に従わなかった為、降職されたが、憲宗の元和2年(807年)には門下侍郎同中書門下平章事(宰相)に至った。同年、宰相のまま剣南西川節度使に任ぜられてに赴き、7年間、蜀に滞在した。淮南西道節度使の呉元済が反乱を起こした時、憲宗から全てを委任されて討伐を画策したが、呉元済派の朝臣の放った刺客に暗殺された。

『武元衡集』三巻がある。

詩人としての彼[編集]

作品に、『嘉陵駅(かりょうえき)』(七言絶句)がある。

嘉陵駅
悠悠風旆遶山川 悠悠として風旆(ふうはい) 山川を遶(めぐ)り
山駅空濛雨作煙 山駅(さんえき)空濛(くうもう)として雨は煙と作(な)る
路半嘉陵頭已白 路(みち)は嘉陵(かりょう)に半ばにして頭は已(すで)に白し
蜀門西更上青天 蜀門(しょくもん) 西にして更に青天(せいてん)に上(のぼ)る

出典[編集]