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武井保雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たけい やすお
武井 保雄
生誕 (1930-01-04) 1930年1月4日
日本の旗 日本・埼玉県深谷市
死没 (2006-08-10) 2006年8月10日(76歳没)
死因 肝不全
出身校 明戸国民学校高等科
職業 実業家
子供 武井俊樹(長男)
武井健晃(次男)
親 武井濱次郎・まさ
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武井 保雄(たけい やすお、1930年〈昭和5年〉1月4日 - 2006年〈平成18年〉8月10日)は、日本の実業家。消費者金融・貸金業武富士の創業者であり、2003年まで同社の会長を務めた。

来歴・人物

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埼玉県深谷市で父・武井濱次郎、母・まさの戸籍上、二男として生まれる[1]。生家はよろず屋であったが、小学3年生の頃、父は近所の女性と大阪に駆け落ちし、子どもまでもうけたが、1955年(昭和30年)に亡くなった[1]。母は浮いた噂ひとつなく、店を切り盛りして子どもたちを育てあげた[2]。

1944年(昭和19年)に明戸国民学校の高等科を卒業すると、熊谷で陸軍の整備員となるが、間もなく敗戦を迎えた[2]。戦後は、国鉄職員として、1948年(昭和23年)まで大宮駅に勤務[2]。以降は、不良の群れに身を投じ、ヤクザとケンカしてピストルで撃たれ、半月ほど入院して弾の摘出手術を受けたこともあった[3]。武井は組との関係は否定していたが、この頃に刺青を入れる。のちに「若気の至りだった」と後悔し、海水浴に行くにも左腕に長めのサポーターをして隠した。後年、刺青は手術で消している[3]。

1951年(昭和26年)頃、東京でビルサッシの工事を営んでいた叔父を頼って上京。建設業、パチンコ屋、野菜行商を経て、ヤミ米屋は始めるが、1961年(昭和36年)10月、食管法違反で志村署[4]、1965年(昭和40年)2月、今度は赤羽署に挙げられる[4]。この時期に入るとヤミ米も思うようにはけなくなってきたことから、ヤミ米で貯め込んだ金を元手に金貸しに転じ、同年3月に個人営業で小口金融を始め、翌年9月、武富士の前身である「富士商事有限会社」を設立[5]。当時の事務所は板橋区蓮根3丁目の自宅に隣り合う4坪のスペースであった[5]。

1968年(昭和43年)6月、社名を「有限会社武富士商事」に改める[6]。1970年(昭和45年)からは別に「ユタカ」、「ヤマトローンサービス」、「東宝ローンサービス」を次々に設置し、この頃から団地住民に無担保で貸し付ける団地金融を本格的に始めた[6][7]。1973年(昭和48年)武井はアメリカの消費者金融を見て歩き、社員の給料を歩合給から固定給に切り替えるとともに、サラ金に進出する[6]。1977年(昭和52年)には貸付残高100億円を達成するとともに、前記の別会社を合併して「武富士」に社名を変更[8]。翌年には新宿から開業したサンシャイン60に本社を移した[9]。

1980年代後半の嵐のような「サラ金批判」を経て、消費者金融業界は旧大蔵省の「金融秩序」のなかに組み込まれていくが、最大手の武富士は、自主独立の気概で金融業界とは距離を置き[10]、東証一部へ上場を果たし、経団連に加盟することも成功[11]。武井は1993年(平成5年)高額納税者番付で全国トップに立った。また官僚や都市銀行、証券会社OBを社長や役員に招いているが、所詮お飾りだった[12]。あまりのひどい内情に1年ほどで副社長を辞めた大蔵省出身の竹腰洋一は[13]、「要は武井さんに気に入られているかどうかで、副社長といえども会社の意思決定に参加できず、助言もできず、だいたい情報も入ってこない。まず、武井さんの判断ありき、の会社なんです」と回想する[12]。

2000年代後半、会社は過払い金請求の増加などにより業績や資金繰りが悪化[11]。2003年(平成15年)12月、ジャーナリスト宅盗聴事件に関与したとして電気通信事業法違反で逮捕され、会長を辞任。翌年11月、懲役3年 執行猶予4年の有罪判決を受けた[11]。肝臓を患っていた武井は、2006年8月10日、肝不全のため死去した。76歳没[14]。武富士は2010年(平成22年)に会社更生手続に入って上場廃止になり、事実上、消滅した[11]。

相続税裁判

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生前買収したオランダ法人に自己の保有する武富士株を売却、このオランダ法人の株を当時香港に在住していた長男の武井俊樹が取得するという方法で、巨額の贈与税・相続税を免れようとしたが、国税当局から1,300億円の追徴課税が課せられた。俊樹は課税処分を不当として行政訴訟を提起。東京地裁で勝訴、東京高裁では逆転敗訴したが、最高裁は「武井俊樹の生活の本拠が、日本だとはいえない」と認定。最高検の訴えを棄却して逆転勝訴し、確定判決となった[15]。

俊樹は、東京高裁敗訴後に延滞税などを含め、約1,585億円を国税庁に納付して上告したため、課税処分の取り消しにより、利子に当たる「還付加算金」を5パーセント上乗せした、計約2,000億円の還付金を日本国政府から受けた[16]。

語録

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  • 「3倍遊ぶために3倍働け」
  • 「右翼は暴力団に弱い。暴力団は警察に弱い。警察は右翼に弱い。この三つをうまく使って物事を収めろ」
  • 「家に帰りたい。連れて行け」※武井の最期の言葉。

親族

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よろず屋を放り出して家を出た父を反面教師にしたはずが、ビジネスで成功を収めると大豪邸に暮らし、妻妾同居のような生活を送った[11]。

武富士専務を務めた武井俊樹は長男[16]、同副社長を務めた武井健晃は次男。作家の高島望は元娘婿[17]。

著書

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  • 『マネートラブル 貸借関係のイザコザからとっさの金策まで』経済界〈タツの本〉、1977年9月。 

関連書籍

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  • 高杉良 『欲望産業』- 武井と住友銀行常務、住友クレジット社長を経て、武富士入りした秋葉節一をモデルとした小説。

脚注

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  1. 1 2 溝口 1983, p. 17.
  2. 1 2 3 溝口 1983, p. 18.
  3. 1 2 溝口 1983, p. 19.
  4. 1 2 溝口 1983, p. 22.
  5. 1 2 溝口 1983, p. 24.
  6. 1 2 3 溝口 1983, p. 25.
  7. ↑ 武井保雄とは - コトバンク
  8. ↑ 溝口 1983, p. 25 - 26.
  9. ↑ 溝口 1983, p. 26.
  10. ↑ 伊藤博敏 (2011年2月24日). “国から2000億円を奪還した故武井保雄・武富士元会長の「執念の節税工作」”. 現代ビジネス. 2026年6月12日閲覧。
  11. 1 2 3 4 5 「戦後80年の偉大なる変人才人 武井保雄 艶福の人生 溝口敦」『文藝春秋』2025年8月号
  12. 1 2 溝口 1983, p. 32.
  13. ↑ 溝口 1983, p. 15 - 16.
  14. ↑ “武井保雄氏が死去 「武富士」創業者”. 47NEWS. 共同通信社. 2006年8月11日.
  15. ↑ 平成20(行ヒ)139 贈与税決定処分取消等請求事件 平成23年02月18日最高裁判所第二小法廷 判決 (PDF)
  16. 1 2 野口達也 (2011年2月25日). “最高裁判決で巨額還付金得た武富士創業家が怨嗟の的”. 週刊ダイヤモンド. ダイヤモンド社. 2016年11月22日閲覧.
  17. ↑ “「武富士」創業者の元娘婿で作家の男、死体遺棄容疑で逮捕 マンションに白骨化遺体放置か”. 産経新聞 (2024年12月18日). 2024年12月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月18日閲覧。

参考文献

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  • 溝口敦『サラ金商人 武富士・プロミス・レイク・アコムの"帝王"たち』現代書林、1983年11月。ISBN 978-4876200221。