正義と微笑

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正義と微笑
著者 太宰治
イラスト 藤田嗣治(装幀)
発行日 1942年6月10日
発行元 錦城出版社
ジャンル 小説
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 B6版
ページ数 254
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正義と微笑』(せいぎとびしょう)は、太宰治の長編小説。

1942年(昭和17年)6月10日、錦城出版社より「新日本文藝」叢書の一冊として刊行された。装幀は藤田嗣治。初版発行部数は10,000部、定価は1円50銭だった[1][2]

執筆の時期・背景[編集]

1941年(昭和16年)12月9日、太宰は弟子の堤重久から弟の堤康久の日記の話を聞くと、即座にこれを小説の題材にすることを思い立つ。15、6歳の頃から書き続けられた弟康久の日記は、兄重久によれば次のようなものであった。

「簿記帳みたいな黒いクロス表紙の、縦がきのノートに、蟻を並べたような小さな文字で、平均一日おき位の割合で、きっちり丹念にかきこんであった。(中略) 随所に、わざと大混乱の文体で、盛んに!や、?を使って、学校や教師に対する罵言、友人に対する侮弄、自己嫌悪の慨嘆、切々たる未来への憧憬が、激しい口調で、それでいてユーモラスに綴られていた。十六歳前後の、少年にしか書けない、どろどろした、切ない何物かがあった。まだ岩にならい岩漿が、赤く、熱く、火花を散らして、行間に流れていた」[3]

また重久は本作品と日記を比べ、こう述べている。

「全篇に滲んでいるキリスト臭は、弟の日記には一抹もなく、当時私たちをとらえていたマルクスを、そっくりキリストに切り変えたものである」[4]

本作品は、1942年(昭和17年)1月に書き始められ、同年3月19日に完成したものと推測される(原稿用紙292枚)[5]。あとがきで太宰は「T君の日記は、昭和十年頃のものらしく、従つてこの『正義と微笑』の背景も、その頃の日本だといふ事も、お断りして置きたい」と記している。

備考[編集]

  • 本作品の題名は「ほほえみ」ではなく「びしょう」と読む。「正義と微笑」という言葉は冒頭部分の「『微笑もて正義を為せ!』 / いいモツトオが出来た。紙に書いて、壁に張つて置かうかしら。ああ、いけねえ。すぐそれだ。『人に顕さんとて、』壁に張らうとしてゐます。僕は、ひどい偽善者なのかも知れん」という一節から取られている。なお、この「人に顕さんとて」は『マタイ伝福音書』第6章第16節の言葉であり、主人公は16節から18節までを引用している。
  • 鷗座の面接の場面で主人公が朗読する『ファウスト』は、森林太郎訳の『ファウスト 第一部』(岩波文庫、1928年7月20日)と『ファウスト 第二部』(岩波文庫、1928年9月10日)である。
  • モデルとなった堤康久は明治学院中等部から立教大学予科に進み、築地の新劇団の研究生を経て、前進座に参加した[6]。戦後は東宝の専属俳優として活躍した。

脚注[編集]

  1. ^ 『太宰治全集 第5巻』筑摩書房、1990年2月27日、477頁。解題(山内祥史)より。
  2. ^ 『太宰治全集 5』ちくま文庫、1989年1月31日、404頁。解題(関井光男)より。
  3. ^ 堤重久 『太宰治との七年間』筑摩書房、1969年3月8日。
  4. ^ 『太宰治全集 第五巻 月報5』筑摩書房、1956年2月20日。堤重久「『正義と微笑』の背景」。
  5. ^ 『太宰治全集 第5巻』筑摩書房、1990年2月27日、479-480頁。解題(山内祥史)より。
  6. ^ 長部日出雄 『桜桃とキリスト もう一つの太宰治伝』文藝春秋、2002年3月30日、241頁。
  7. ^ 太宰治|正義と微笑 - ITmedia 名作文庫
  8. ^ 欅坂46メンバー総出演「徳山大五郎を誰が殺したか?」第2話レビュー、みんな怪しすぎる! -music.jpニュース

外部リンク[編集]