歌川豊国 (2代目)

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「名勝八景 大山夜雨」 二代目豊国画。

二代目 歌川豊国(にだいめ うたがわ とよくに、生没年不詳[1] )とは、江戸時代浮世絵師

来歴[編集]

初代歌川豊国の門人。名は源蔵、一陽斎(文政11 - 12年)、一暎斎(文政11年頃以降)、後素亭(文政11年頃 - 天保5年)、満穂庵と号す。文政の初め頃、初代豊国に入門し当初は国重(くにしげ)と称したという。のちに豊重(とよしげ)と名を改め、豊国忰豊重とも称した。文政7年(1824年)以前には初代豊国の養子となり、初代の没後、翌文政8年に二代豊国を襲名する。しかしこの襲名について『名人忌辰録』は「同門不承知」であったと伝えており(豊国(二世)の項、ただしこの豊国とは歌川国貞のこと)、また『狂歌人名辞書』も「一たび豊国の号を継ぎしが物議の為め再び元の国重に復す」とあり、豊重の豊国襲名が当時の歌川派の中で問題になっていたらしいことが伺える。ちなみに弘化元年(1844年)、兄弟子の国貞が豊国の名跡を継いでいるが、なぜか本来は三代目にあたるにもかかわらず、二代目豊国の存在を無視して自らを「二代豊国」と称した。

画業は忠実に師の画風を受け継ぎ、堅実な作風で合巻の挿絵や美人画、役者絵、芝居絵を描いた。文政11年(1828年)頃には本郷春木町に住んだことから、後に二代目歌川豊国を称した国貞と区別するため「本郷豊国」と呼ばれる。天保5年(1834年)頃を境に作品は見られなくなる。『名人忌辰録』によれば豊国襲名が「同門不承知」だったことからついに絵師を廃業し、本郷三丁目で陶器商を営んだという。門人に二代目歌川国重歌川国盛歌川国鶴がいる。

作品[編集]

合巻挿絵[編集]

錦絵[編集]

  • 「名勝八景 大山夜雨」 横大判、8枚揃の内 浮世絵太田記念美術館日本浮世絵博物館所蔵 ※天保5年頃
  • 「新製錦手猪口」 大判揃物 日本浮世絵博物館所蔵 ※文政7 - 8年
  • 「風流東姿十二支」 大判12枚揃
  • 「こいな 岩井半四郎」 大判 日本浮世絵博物館所蔵
  • 「芸者立姿」 大判 日本浮世絵博物館所蔵
  • 「東名所 芝八景 増上寺晩鐘」 大判 日本浮世絵博物館所蔵
  • 「新製姿見酒盃今様美人合」 大判 日本浮世絵博物館所蔵
  • 「役者花合 坂東秀佳(三代目坂東三津五郎)」 大判 新藤茂所蔵

肉筆画[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『浮世絵師伝』は生年を享和2年(1802年)、『原色浮世絵大百科事典』第2巻及び『図説浮世絵入門』も生年を享和2年頃とするが、『狂歌人名辞書』は没年を「天保六年(1835年)十一月一日歿す、年五十九」と記しており、天保6年没で享年59だとすると生年が享和2年では計算が合わない。『浮世絵の基礎知識』は生年を安永6年(1777年)としており、天保6年から逆算したものと見られる。『名人忌辰録』には「一龍斎国重、故豊国の号を嗣で二世と称し夭死す」とある。
  2. ^ 浮世絵太田記念美術館編集 『京都市プラハ姉妹都市提携1周年記念 プラハ国立美術館所蔵浮世絵展』 プラハ浮世絵展京都実行委員会、1997年2月27日、p.10。

参考文献[編集]

  • 関根只誠 『名人忌辰録 下』 1894年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり。4コマ目。
  • 井上和雄編 『浮世絵師伝』 渡辺版画店、1931年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり。113 - 114コマ目。
  • 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年
  • 狩野快庵編 『狂歌人名辞書』 臨川書店、1977年(復刻版、原著は昭和3年〈1928年〉刊行)
  • 吉田漱 『浮世絵の見方事典』 北辰堂、1987年 ※124頁
  • 稲垣進一編 『図説浮世絵入門』〈『ふくろうの本』〉 河出書房新社、1990年 ※99頁
  • 太田一斎編 『歌川派二百年と七代目歌川豊國』 歌川豊國興隆会、2002年

関連項目[編集]