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橘糸重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
橘 糸重
人物情報
生誕 (1873-10-08) 1873年10月8日
日本の旗 日本 三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市
死没 1939年9月1日(1939-09-01)(65歳没)
出身校 東京音楽学校
学問
研究分野 音楽学
研究機関 東京音楽学校
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橘 糸重(たちばな いとえ、1873年(明治6年)10月18日 - 1939年(昭和14年)9月1日)は、日本の音楽家、敎育者、歌人

経歴

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1873年、三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)生まれ。生後まもなく父を亡くし、1874年に母、姉とともに上京。東京音楽学校(現・東京芸術大学)でピアノなどを学び、1892年に卒業。卒業後は研究科に進む。1896年より同校助教授となった。1901年に教授昇進。1928年に教授を辞した[1]。1937年より帝国芸術院会員。ラファエル・フォン・ケーベルを音楽上のみならず宗教上の師とした。また、1931年(昭和6年)に来日したレオニード・クロイツァーの講習会を受講した記録もある[2]

歌人としては竹柏会に入り、佐佐木信綱に師事した。瀧廉太郎の歌曲「水のゆくへ」は、竹柏会発行の「竹柏園集」(第一編)に糸重が発表した新体詩に作曲されたものである。

関連

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  • 瀧廉太郎高木東六東京音楽学校の教え子。
  • 島崎藤村が東京音楽学校選科に学んだ際に助教授として知り合い、藤村の小説『水彩画家』、『家』に登場する女性音楽家は糸重をモデルとしたものである。そのために藤村の恋人伝説が生まれたが、単に一度小諸に藤村を訪ねただけである。文壇の噂となったことを恥じ、生涯独身を通した[3]

脚注

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  1. ^ 『官報』第372号 1928年03月28日 p.734”. 大蔵省印刷局. 2024年11月24日閲覧。
  2. ^ 東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第2巻p.1269”. 東京藝術大学未来創造継承センター大学史史料室. 2024年11月24日閲覧。
  3. ^ 橘 糸重」『新撰 芸能人物事典、20世紀日本人名事典』https://kotobank.jp/word/%E6%A9%98%20%E7%B3%B8%E9%87%8Dコトバンクより2022年11月8日閲覧 

参考文献

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  • 伊東一夫『藤村をめぐる女性たち』国書刊行会 平成10(1998)年11月刊
  • 阪本幸男「橘糸重歌文集」短歌新聞社 平成21(2009)年10月15日刊

外部リンク

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