標準写像

力学系理論における標準写像(ひょうじゅんしゃぞう、英: standard map)とは、面積保存型の2次元写像の一つである[1]。面積保存型写像における非線形現象を理解するための代表的なモデルとして頻繁に用いられ、幅広く調べられてきている[2][3]。標準写像は1つのパラメータを持つ1径数族であり[4]、保存系における規則的振る舞いからカオス的振る舞いへの遷移を調べるのによく用いられる[5]。標準写像はボリス・チリコフによって導入され、その名称もチリコフの命名による[6][7]。
定義
[編集]標準写像は、標準的には次のような2変数連立非線形差分方程式で表される[8][9][5]。
ここで、I は実変数で、 θ は 2π を法とする実変数である[8][9][5]。実数全体の集合を R とし、1次元トーラスを S1 = R/2πZ とすると、上式は円筒状空間 S1 × R に定義される写像である[10]。
上記のような差分方程式は、n を離散的な時間を意味するとしたとき、離散的な時刻 n での値 (θn, In) を n+1 での値 (θn+1, In+1) へ写像する[9]。式中の K はパラメータで、差分方程式における非線形性の強さを表す[9]。パラメータの符号を逆にした
式 (1-1) や (1-2) のように 2π を法とするのではなく 1 を法とした
という差分方程式も、標準写像の定義としてよく用いられる[12][13][14][3]。式 (1-1) に対して
と変数変換することで式 (1-3) が得られる[10]。この場合の標準写像は、1次元トーラスを S1 = R/Z とした円筒空間 S1 × R に定義される[10]。
標準写像を物理現象のモデルと見なしたときは変数 p(または I)は負の値も取り得るため R 上の変数と考えることが適切だが、数学的には p も mod 1 の変数とし、標準写像を2次元トーラス S1 × S1 からそれ自身への写像とすることも多い[12]。実際 p を整数分だけずらしても、すなわち j を任意の整数として (q, p) ↦ (q, p + j) のように変数変換しても、式 (1-3) は不変である[14]。したがって、定義域を R × S1 と考えたときは、{0 ≤ q < 1, j ≤ p < j + 1} という領域が p 方向に並んだ空間と考えることができる[14]。
保測性・シンプレクティック性
[編集]標準写像は代表的な保測写像として知られる[6]。任意の点 (In, θn) におけるヤコビ行列の行列式は、以下のように 1 となる[10][13]。
また、標準写像はシンプレクティック写像でもある[11]。滑らかな関数 f に対して df を f の外微分(全微分)とし、∧ をウェッジ積とする。式 (1-2) を例にすると、
と計算でき、シンプレクティック写像の条件が成り立つ[11]。
振る舞い
[編集]K = 0 のとき
[編集]パラメータが K = 0 のとき、標準写像は、
のように、In および θn を n の関数として表すことができる[15]。ここで、I0, θ0 はそれぞれの変数の初期値である。
In = In+1 であることから、写像は θ 方向の円周に沿って点を写すのみである[16]。このとき、円周上の写像の回転数は、ρ = I0/2π または ρ = p0 である[15][16]。ρ が有理数であれば、円周上の軌道は周期軌道となる[17][3]。m および n を互いに素な 自然数とする。回転数が ρ = m/n であれば、円周上の任意の軌道は周期 n で元に戻る周期軌道である[17]。一方、ρ が無理数であれば、円周上の軌道はその円周を稠密に覆う(不変トーラス等と呼ばれる)準周期軌道となる[17][18]。有理数であるような I0 は測度 0 なので、標準写像の相空間は後者(不変トーラス)で埋め尽くされている[17][3]。
K > 0 のとき
[編集]パラメータが K > 0 になると、相空間の構造は K = 0 のときから大きく変化する[3]。非線形性の強さを代表するパラメータ K を大きくしていくと K = 0 で存在していた不変トーラスは徐々に破壊され、カオスの海とトーラスの島が現れる[15]。
K > 0 において標準写像の不動点は、{0 ≤ θ < 2π, 0 ≤ I < 2π} および {0 ≤ q < 1, 0 ≤ p < 1} の領域で2つ存在し、それらの不動点を E と S と表せば、
- E = (θ, I) = (0, 0) または E = (q, p) = (0, 0)
- S = (θ, I) = (π, 0) または S = (q, p) = (0.5, 0)
である[3][19][20]。ヤコビ行列の固有値を調べることで、不動点 S はすべての K > 0 で鞍点であり、不安定であることが分かる[19][20]。不動点 E は 0 <K ≤ 4 ではリアプノフ安定な楕円型不動点で、K > 4 では不安定となる[19][20]。したがって、K = 0 のときに I = 0 または p = 0 の直線上の任意の点として存在していた不動点は、K > 0 になると上記の2点のみを残して消失する[3]。回転数が有理数の他の不変トーラスも同様の事象が起き、トーラスが崩壊して鞍点と楕円型不動点へ変わる[21][22]。
一方、回転数が無理数のトーラスは摂動を受けても、全てではないが残存する[23][24]。このように充分に小さい摂動であれば残存する不変トーラスは、KAMトーラスや(2次元の場合は)KAM曲線と呼ばれる[24][25][26][27][4]。
出典
[編集]- ↑ アリグッドら 2012, pp. 81–82.
- ↑ アリグッドら 2012, p. 81.
- 1 2 3 4 5 6 7 井上・秦 1999, p. 123.
- 1 2 アリグッドら 2012, p. 82.
- 1 2 3 Thompson & Stewart 1988, p. 321.
- 1 2 3 石崎 2009, p. 110.
- ↑ Jackson 1995, p. 29.
- 1 2 Jackson 1995, pp. 32–33.
- 1 2 3 4 下條 1992, p. 146.
- 1 2 3 4 Jackson 1995, p. 33.
- 1 2 3 柴山 2016, p. 56.
- 1 2 Jackson 1995, pp. 33–34.
- 1 2 石崎 2009, p. 111.
- 1 2 3 森・蔵本 1994, p. 164.
- 1 2 3 森・蔵本 1994, p. 165.
- 1 2 Jackson 1995, p. 34.
- 1 2 3 4 Jackson 1995, p. 35.
- ↑ 井上・秦 1999, pp. 119, 123.
- 1 2 3 森・蔵本 1994, p. 250.
- 1 2 3 Thompson & Stewart 1988, p. 322.
- ↑ Jackson 1995, pp. 39, 46–47.
- ↑ 井上・秦 1999, pp. 121, 124.
- ↑ Jackson 1995, p. 47, 49.
- 1 2 井上・秦 1999, pp. 121.
- ↑ 下條 1992, p. 141.
- ↑ 柴山 2016, p. 113.
- ↑ Jackson 1995, p. 47.
参照文献
[編集]- E. Atlee Jackson、田中 茂・丹羽 敏雄・水谷 正大・森 真(訳)、1995、『非線形力学の展望Ⅱ ―複雑さと構造―』初版、共立出版 ISBN 4-320-03326-4
- 井上 政義・秦 浩起、1999、『カオス科学の基礎と展開 ―複雑系の理解に向けて―』初版、共立出版 ISBN 4-320-03323-X
- 下條 隆嗣、1992、『カオス力学入門 ―古典力学からカオス力学へ―』初版、近代科学社〈シミュレーション物理学6〉 ISBN 4-7649-2005-0
- J. M. T. Thompson; H. B. Stewart、武者 利光(監訳)、橋口 住久(訳)、1988、『非線形力学とカオス ―技術者・科学者のための幾何学的手法―』第1版、オーム社 ISBN 4-274-07431-5
- 森 肇・蔵本 由紀、1994、『散逸構造とカオス』、岩波書店 ISBN 4-00-010445-4
- K.T.アリグッド;T.D.サウアー;J.A.ヨーク、津田 一郎(監訳)、星野 高志・阿部 巨仁・黒田 拓・松本 和宏(訳)、2012、『カオス 第3巻 力学系入門』、丸善出版 ISBN 978-4-621-06540-2
- 石崎 龍二、2009、「保測写像におけるカオス軌道の相対拡散」、『福岡県立大学人間社会学部紀要』17巻2号、福岡県立大学人間社会学部、ISSN 1349-0230、NAID 110008605639 pp. 109–118
- 柴山 允瑠、2016、「重点解説 ハミルトン力学系 ―可積分系とKAM理論を中心に―」、『臨時別冊・数理科学2016年12月』(SGCライブラリ 130)、サイエンス社、ISSN 0386-8257
外部リンク
[編集]- Standard Map - MathWorld
- Chirikov standard map - Scholarpedia