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樊噲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
樊噲
前漢
舞陽侯
出生 生年不詳
一説に始皇5年(紀元前242年
泗水郡沛県
死去 恵帝6年(紀元前189年
拼音 Fán Kuài
諡号 武侯
爵位 賢成君→臨武侯→舞陽侯
主君 劉邦劉盈
呂嬃
樊伉
樊市人
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樊 噲(はん かい、紀元前242年?[1][2] - 紀元前189年)は、中国末から前漢初期にかけての将軍政治家爵位舞陽侯諡号武侯。前漢建国の功臣にして十八功侯の一人。

秦末の反乱において劉邦に従い挙兵し、その勇猛さにより幾多の軍功を立て、鴻門の会では劉邦を救出するために立ち回った。前漢王朝成立後は主に反乱の平定などに貢献した。

生涯

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泗水郡沛県の人で、屠殺業を生業としていた。亭長の劉邦が秦に科せられた労役人の統率者の役目を果たせず、処刑を恐れて芒碭山沢に逃れた際には共に潜伏した。また、おそらく決起以前より劉邦の妻呂雉の妹呂嬃を娶っていたため、劉邦とは相婿の関係だった。

反秦挙兵

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二世元年(紀元前209年)、陳勝・呉広の乱が発生し、これに呼応して各地で秦に対する反乱が続発すると、劉邦も豊邑で挙兵し、樊噲もこれに従った。劉邦が沛県の反乱軍の代表となって沛公を名乗ると、樊噲は舍人に任じられた。

樊噲はまず胡陵・方与を攻撃し、その後、泗水郡の監御史と郡守の軍を撃破して沛県を平定した。秦の将軍章邯の司馬の夷と戦った際には勇敢に奮戦し、首級15を挙げて敵軍を撃退し、国大夫の爵位を賜った。その後も常に劉邦に従軍し、章邯と濮陽で戦った時には攻城に際して真っ先に城壁に登り、首級23を挙げて列大夫の爵位を賜った。李由と陽城と戦った時にも真っ先に登城し、出入り口を開放して李由の軍を破り、首級16を挙げて上聞の爵位を賜った。東郡の守尉との戦いでは首級14、捕虜11人を挙げて五大夫の爵位を賜った。河間郡守と趙賁の軍を撃破した際には先陣を切って敵陣に突入し、候1人、首級68、捕虜27人を挙げ、卿の爵位を賜った。曲遇で揚熊を撃破した戦いでも真っ先に登城して首級8、捕虜44人を挙げ、賢成君の封号を賜った。その後も陽城で南陽郡守の呂齮を破る、酈で敵を撃退し、首級24、捕虜40人を挙げるなどの戦果により加封を受けた。劉邦が武関から覇上まで攻め上った時、樊噲は軍を率いて都尉1人を討ち取り、首級10、捕虜146人を挙げ、2900人を降伏させた。高祖元年(紀元前206年)、秦王子嬰は劉邦に降伏し、秦は滅亡した。

鴻門の会

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歌川国貞筆『漢楚軍談 漢樊噲』

劉邦が咸陽の宮殿に入るとその豪華絢爛ぶりや美女に溺れ、ここに留まりたいと願ったが、樊噲と張良が強く諌めたため、劉邦は財物を封じ、軍を返して覇上に駐屯した。劉邦は函谷関の守備を命じ、懐王の約に基づき関中の王になろうとしたが、函谷関で足止めされたことに項羽は大いに怒り、英布らに命じて函谷関を陥落させ、さらに劉邦を攻撃しようとした。当時、劉邦軍10万に対し項羽の軍勢は40万に及び、戦いとなれば到底劉邦に勝ち目はなかった。そのため劉邦は項伯の取り成しにより、樊噲含む100人余りの供を連れて鴻門で設けられた項羽の宴に参加し、敵対する意思はないことを伝えて謝罪した。

酒宴がたけなわになった時、范増は劉邦の殺害を企て、項荘に命じて剣舞の披露中に劉邦を殺そうとしたが、項伯が身を挺してこれを阻止した。張良が営門の外の樊噲のもとに駆け付けて事態を説明すると、樊噲は「私が中に入り、沛公と運命を共にいたします」と言い、剣と盾を持って制止する衛兵を突き飛ばして倒し、まっしぐらに営内に突入した。帳を払って入った樊噲は目尻が裂けんばかりに項羽を睨みつけ、髪の毛を逆立てて項羽と向かい合った。項羽は剣に手をかけ、誰であるかと問うと、張良が「沛公の参乗(護衛)である樊噲でございます」と答えた。項羽は「壮士である」と称え、樊噲に大酒と生の豚の肩肉を与えた。樊噲は一気に酒を飲み干し、盾をまな板代わりにして剣で肉を切り分け、全て平らげた。項羽が「壮士よ、まだ飲めるか?」と問うと、樊噲は「臣は死をも辞しません。ましてや一杯の酒などどうということはございません」と応じ、さらに項羽に対し、「秦王(始皇帝)は虎狼のような心を持ち、飽くことなく人を殺し、天下の者は皆、彼に背きました。懐王(後の義帝)は『先に秦を破り咸陽に入った者をその地の王とする』と約束されました。沛公が先に秦を破り咸陽に入りましたが、毫毛ほどのものにも近づかず、宮室を封じて閉ざし、軍を返して霸上に駐屯し、大王(項羽)のご到来をお待ちしていたのです。将を遣わして函谷関を守らせたのは、盗賊の出入りや非常事態に備えるためでした。このように功績があるのに、取るに足らぬ讒言を聞き入れ、功績ある者を誅殺しようとなさる。これでは滅びた秦のやり方と同じです」、「大王が小人の言葉を聞き入れ、沛公との間に不和が生じたことで、天下の人心が大王を疑うことになりかねないと恐れます」と責めると、項羽は沈黙した。しばらくすると劉邦は厠に行くふりをして、樊噲を招き出してその場から逃げ去った。

劉邦は項羽に別れの挨拶をしていないことを気にして戻ろうとしたため、樊噲が「大行不顧細謹大礼不辞小譲(大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を辞せず:大事を成し遂げようとするならば、細かく小さなことにこだわることなく、目的に向かって突き進むべきだ)」と説得し、脱出させた。劉邦は馬に乗り、これに樊噲ら4人(他に夏侯嬰靳彊紀信[3])が徒歩で従い、山道を通って覇上の軍営に帰還した。残った張良が項羽へ詫びると、項羽も既に劉邦を誅殺する気はなくなっていたため、劉邦について不問とした。『史記』樊酈滕灌列伝は「もし樊噲が駆け込んで営に入り項羽を責めることがなかったならば沛公の大事は危うかったであろう」と述べる。

その後、劉邦は項羽により漢王に封ぜられた。樊噲は劉邦により列侯臨武侯に封ぜられ、郎中に任命された。

楚漢戦争

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劉邦は漢中で地盤を固めた後、まず関中を得るために三秦平定の戦いを開始し、これにより楚漢戦争の幕が開かれた。この戦役において樊噲は単独で、あるいは劉邦に従って、西県の県丞、雍王・章邯の車騎部隊、その弟の章平、趙賁の軍と戦い、功績により郎中騎将、及び将軍に昇進した。郿、槐里、柳中、咸陽を陥落させる、章邯が籠城する廃丘を水攻めして降伏させるなどの功績を挙げ、漢軍の中でも最大の軍功とされた。その後、櫟陽まで進軍し杜県の樊郷を食邑として賜った。

楚との戦いでは外黄で王武・程処の軍を撃破し、鄒、魯、瑕丘、薛などを攻略した。漢軍が彭城の戦いで敗れた後、樊噲は滎陽の広武まで戻って駐屯し、楚軍の攻撃を1年以上にわたり防ぎ切り、功績により食邑2,000戸を加増された。後に楚漢両国で和約が結ばれて項羽が東に去ると、劉邦に従って項羽を追撃し、陽夏を陥落させ、楚の周将軍の兵士4,000人を捕虜とした。陳では項羽軍を包囲してこれを大いに打ち破り、さらに胡陵を陥落させて住民を虐殺した。

漢王朝における樊噲

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前漢王朝成立後、樊噲は功績により800戸を加増された。後に燕王臧荼が反乱を起こしたため、劉邦に従ってこれを攻撃し、臧荼を捕虜として燕の地を平定した。楚王韓信にも謀反の疑いがあると密告があったため、樊噲は陳まで赴いて韓信を捕らえ、楚を平定した。

高祖6年(紀元前202年)、正月丙午の日、舞陽侯に封ぜられた。これまでの食邑は取り除かれ、新たに5,000戸を領した。後に劉邦に従って反乱を起こした韓王信討伐に従軍した。

紀元前196年に、樊噲が尊敬して跪いたこともある韓信の謀反に同調した鉅鹿郡守陳豨酈商とともに討伐して、その功績を挙げた。同年に、劉邦が英布討伐のあとに矢による重傷を負って病床についたが、功臣の周勃灌嬰などは面会することを遠慮した。しかし、劉邦の義弟である樊噲は遠慮せずに劉邦の部屋に入り、周勃、灌嬰も樊噲に同伴した。そのとき劉邦は宦官の膝を枕にして横になった。これを見た樊噲は「陛下は私たちを従えて、沛・豊で挙兵されました。やがて項羽を滅ぼして天下統一なされました。しかし、現在の有様はなんとしたことでしょう?同時に陛下が病床について私たちは心配でならないのです。それなのに、陛下は私たちに相談をなさらずに、勝手に宦官風情の膝元で横になっておられるのは情けない限りです。陛下はかつての趙高の件をお忘れですか?」と諫言した。これを聞いた劉邦は苦笑して起き上がった。

しかし、紀元前195年盟友の燕王盧綰討伐を劉邦から命じられるが、ある者の「樊噲は呂氏の一味です。皇帝が崩ずればたちまち戚夫人と如意を族滅するでしょう[4]」 という讒言によって劉邦から勅命を受けた陳平によって捕らえられ、周勃と交代される。だが、高祖の死によって釈放された。

恵帝の時代に匈奴冒頓単于が呂雉を侮辱する手紙を送ったので、激怒した呂雉に対して樊噲が進み出て「この私に十万の軍勢をお授けください」と述べた。他の諸将も樊噲に賛成した。しかし、中郎将季布だけは「樊噲将軍の発言は死罪に値します」と直言したために、呂雉は以降から匈奴遠征を採り上げることはなかった。

恵帝の6年(紀元前189年)に死去した。武侯と諡された。

子孫

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樊噲死後、嫡子の樊伉が舞陽侯を継いだが、呂雉の死を機とした政変により、呂氏一族皆殺しの一環として生母の呂嬃と共に処刑された。のちに樊噲の庶子の樊市人が舞陽侯を継いだ。樊市人は29年間も爵位にあり、死去すると荒侯と諡された。その子の樊他広が継いだ。

しかし、六年後に舞陽侯に仕える舎人が樊他広に対して罪を犯したので、処罰を受けた。その舎人は樊他広を恨み、朝廷に告訴した。その内容は「荒侯は病弱であり、子種を持っておりませんでした。それを不満に思った荒侯夫人は、荒侯の弟と密通して他広を産んだのです。他広は荒侯の子ではなく、甥なので舞陽侯を継ぐ資格はありません」というものであった。朝廷は樊他広の周辺の調査を命じた。

景帝の中元6年(紀元前144年)に樊他広は爵位を剥奪されて、領地を召し上げられて庶民の身分に落とされた。平帝元始2年に、樊噲の6世の孫(玄孫の子)の樊章が舞陽侯に復位した[5]

評価

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前漢王朝の礎を築いた功臣一覧の功績と家系録を記した『漢書』高恵高后文功臣表では序列第5位に列せられている。

以下は後漢の歴史家・文学家として名高い班固の詩文集『班蘭台集』に記載されている樊噲を讃えた頌詩である。

黆黆將軍,威葢不當,操盾千鈞,拔主項堂,興漢破楚,矯矯忠良,卒為丞相,帝室以康。
黆黆たる将軍、威厳は並ぶ者なく、千鈞の盾を操り、項羽の会より主君を救い出した、漢を興し楚を破り、勇ましく忠良である、ついには丞相に至り、帝室を安泰ならしめた。

脚注

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  1. ^ Chinese Monarchs - Fan Kuai (242 BC – 189 BC) was a military general in the early han dynasty and a prominent figure of the Chu–Han contention period.”. www.nouahsark.com. 2025年10月28日閲覧。
  2. ^ 取得連結 (2023年9月6日). “Fan Kuai(樊噲)” (中国語). 2025年10月28日閲覧。
  3. ^ 『史記』項羽本紀による。『漢書』高帝紀では紀成
  4. ^ 史記』巻95樊酈滕灌列伝
  5. ^ 漢書』巻11樊酈滕灌傅靳周列伝

外部リンク

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