槙坪夛鶴子

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槙坪 夛鶴子(まきつぼ たづこ、新字体:多鶴子、本名:光永 夛鶴子、1940年(昭和15年) - 2011年(平成23年)9月24日)は、日本映画監督スクリプター

略歴[編集]

日野夛鶴子として、広島県呉市生まれる。1945年の広島への原爆投下の際には、爆心地から25キロ離れた、当時の安佐郡久地村(現在の広島市安佐北区)の父親の実家で被爆する[1]1950年に大阪へ転居し、後に大阪府立北野高等学校に進む。この間、両親が離婚し、高校の頃から母の槙坪姓を名乗るようになる[2]

早稲田大学第一文学部演劇科卒業[3]。在学中に最初の結婚をし、出産する(後に離婚)[4]。24歳ころに関節リウマチを発症するが、27歳ころに俳優の米倉斉加年に紹介され、スクリプター(記録係)として民芸映画社で働くことになり、映画界に入る[4][5]。スクリプターとしては、テレビドラマ『黒部の太陽』(1969年)などに関わる[5]

1986年(昭和61年)、長野県養護教諭による性教育の取り組みをテーマに取り上げた『子どもたちへ いのちと愛のメッセージ』で監督デビュー[6]。以降、高校生の妊娠をテーマとした『若人よ いのちと愛のメッセージ』(1987年)、後天性免疫不全症候群(エイズ)を取り上げた『地球っ子 いのちと愛のメッセージ』(1993年)、『わたしがSuki』(1998年)、老人介護を取り上げた『老親 ろうしん』(2000年)、『母のいる場所』(2003年)、自閉症をテーマとした『星の国から孫ふたり』(2009年)と、身近な問題を劇映画として発表し続けた[7]

出典・脚注[編集]

  1. ^ 槙坪夛鶴子 (2000年12月23日). “われら六稜人【第38回】演劇の情熱…いま映画に シーン1 広島、原爆、大阪へ”. 大阪府立北野高校六稜同窓会. 2011年11月15日閲覧。
  2. ^ 槙坪夛鶴子 (2000年12月23日). “われら六稜人【第38回】演劇の情熱…いま映画に シーン2 北野時代、バレー、水泳、そして演劇”. 大阪府立北野高校六稜同窓会. 2011年11月15日閲覧。
  3. ^ この人に No.203 映画監督 槙坪夛鶴子さん」、『Volo(ウォロ)』第396号、大阪ボランティア協会、2004年2011年11月14日閲覧。
  4. ^ a b 福祉ネットワーク ともに生きよう 車いすの監督介護を撮る~監督 槙坪夛鶴子(まきつぼたづこ)~”. 日本放送協会 (2004年9月9日). 2011年11月14日閲覧。
  5. ^ a b 槙坪夛鶴子 (2000年12月23日). “われら六稜人【第38回】演劇の情熱…いま映画に シーン3 自由舞台、結婚そしてスクリプターの世界へ”. 大阪府立北野高校六稜同窓会. 2011年11月15日閲覧。
  6. ^ “ルポルタージュ2011 映画監督・槙坪さんの遺志継いで”. 信濃毎日新聞: p. 34. (2011年11月13日) 
  7. ^ 追悼 槙坪夛鶴子監督”. Cinema journal. 2011年11月14日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]