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標葉氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
楢葉氏から転送)

標葉氏(しめはし[1][2] / しねはし[1][2])は、中世に陸奥国標葉郡(現・福島県双葉郡北部)を支配した日本の氏族。権現堂城を築き戦国武将として活動したが、15世紀後半に相馬氏に攻められて惣領家は滅亡した。

歴史

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江戸時代の『東奥標葉記』によれば、平安時代末期に海東小太郎平成衡が5人の息子に陸奥国南部の各郡を与え、標葉郡を領した4男・隆義の末裔が標葉氏であるという[1]。一次資料で確認できる標葉氏の人名は少ないが、建治元年(1275年)の「六条八幡宮造営注文」には陸奥国の鎌倉幕府御家人として「標葉四郎跡」がみえる[3]

南北朝時代には一族が南朝・北朝に分かれて戦っていたとみられ、標葉孫三郎教隆が北朝方の相馬光胤相馬重胤の子)に従った一方、延元元年(1336年)3月27日の標葉荘の戦いでは標葉孫四郎が相馬光胤軍と戦い討ち取られている[4]。なお標葉氏の惣領家とみられる標葉持隆は南朝の北畠顕家に従い京都へ進軍した[4]応永6年(1399年)に鎌倉公方足利満兼によってその弟の満貞満直が陸奥国に派遣されると、これに対応するため標葉氏は近隣の武士らと国人一揆である海道五郡一揆を結んだ[4]。その後は相馬氏と対立を深め、標葉氏は権現堂城を築いて相馬氏の攻撃に備えた[1][4]

標葉清隆が当主だった15世紀後半に相馬高胤は盛んに標葉領を攻撃したが、高胤は陣中で死去した[1][5]。高胤の跡を継いだ息子の盛胤が標葉清隆との戦いを続け、権現堂城を攻め落として清隆・隆成父子を自害させ、ここに標葉氏惣領家は滅亡するに至った[5]。権現堂城の戦いの時期については、長享元年(1487年)とする文献と明応元年(1492年)とする文献が存在している[5]

惣領家の滅亡後、六旗(井戸川・山田・小丸・下浦・熊・上野)・七人衆(室原・郡山・樋渡・苅屋戸・熊川・中村・牛渡)といった庶流や家臣の多くは相馬氏に仕えることとなり、江戸時代には相馬中村藩士となった者もいる[6]。このうち標葉氏の庶流であった山田氏は相馬氏に仕えたのち相馬中村藩の在郷給人となり、嘉永5年(1852年)に山田鉄三郎が華光院(現在の正西寺境内)標葉清隆・隆成父子の五輪塔を建立している[7]

昭和初期には南朝顕彰の流れの中で「南朝の忠臣」として清隆・隆成(15世紀の人物であり南朝とは関わりがない)を含めた標葉氏に対する顕彰運動が活発となり、1938年(昭和13年)には請戸村林銑十郎元首相揮毫による「標葉公忠勲之碑」も建立された[8]

南朝の後裔を称した熊沢寛道は、自身の先祖である信雅王が標葉清隆を頼って奥州に落ち延び、その時に拠点とした「澤邑」の地名にちなみ「熊澤」の苗字を称したのだとしている[9]

出典

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  1. 1 2 3 4 5 太田 1934, pp. 2913–2914.
  2. 1 2 西村 2026, pp. 5–10.
  3. 西村 2026, pp. 18–20.
  4. 1 2 3 4 西村 2026, pp. 20–25.
  5. 1 2 3 西村 2026, pp. 26–38.
  6. 西村 2026, pp. 39–44.
  7. 西村 2026, pp. 51–55.
  8. 西村 2026, pp. 86–89.
  9. 西村 2026, pp. 77–83.

参考文献

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  • オープンアクセス太田亮国立国会図書館デジタルコレクション 標葉」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年11月。 NCID BN05000207https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/551 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 西村慎太郎『「忠臣」創出―戦国武将標葉氏の近代』平凡社〈ブックレット〈書物をひらく〉36〉、2026年1月20日。ISBN 978-4-582-36476-7