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植田謙吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
植田うえだ 謙吉けんきち
生誕 1875年3月8日
日本における郵船商船規則の旗 日本大阪府南河内郡狭山村(現:大阪狭山市
死没 (1962-09-11) 1962年9月11日(87歳没)
日本の旗 日本東京都
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1898年 - 1939年
最終階級 陸軍大将
勲章 勲一等旭日大綬章
功三級金鵄勲章
除隊後 戦友団体連合会会長
日本郷友連盟会長
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植田 謙吉(うえだ けんきち、1875年明治8年〉3月8日 - 1962年昭和37年〉9月11日)は、日本陸軍軍人陸士10期陸大21期陸軍大将正三位勲一等功三級[1]

経歴

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大阪府南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)出身[2]。陸軍軍吏、植田謙八の二男として生れる。隣家に考古学の権威で高松塚古墳を調査したことでも知られる橿原考古学研究所初代所長末永雅雄がおり実家は現在の大阪狭山市立東小学校の前付近と推定される。北野中学校東京高等商業学校(現:一橋大学)を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、騎兵少尉任官。陸士生徒隊附、騎兵監部員などを経て、1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業。第18師団参謀第16師団参謀、陸軍省軍務局課員、参謀本部附(欧州出張)などを歴任。シベリア出兵に際しては、浦塩派遣軍参謀として出征した。

教育総監部附、騎兵第1連隊長などを経て、1923年(大正12年)8月、陸軍少将に進級。航空部附、騎兵第3旅団長、軍馬補充部本部長などを歴任し、1928年(昭和3年)8月、陸軍中将に進級した。支那駐屯軍司令官を務めた後、第9師団長在任中、第一次上海事変により出動。停戦交渉中の1932年(昭和7年)4月29日、上海天長節爆弾事件により左脚を失った。この後、6月4日に大阪に凱旋し、担架に乗せられて上陸したが、このときの模様については、フランスから来た女性ジャーナリスト、アンドレ・ヴィオリスの『1932年の大日本帝国』で描写されている[3]

参謀本部付、参謀次長朝鮮軍司令官などを歴任。1934年(昭和9年)11月、陸軍大将に進み、軍事参議官を務めた後、関東軍司令官兼駐満大使となった。

1936年6月10日、満州国に於ける日本国臣民の居住及満州国の課税等に関する日本国満州国間条約を締結した。在満日本人の課税額が原税の4分の1から3分の1になる協定であった[4]。翌年に通州事件が発生。1939年(昭和14年)5月にはノモンハン事件が発生。停戦後にその責めを負うかたちで同年12月に予備役編入となった。

戦後公職追放となり[5]1952年(昭和27年)の追放解除後[6]は戦友団体連合会会長、日本郷友連盟会長を務めた。

年譜

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植田謙吉

栄典

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位階
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1906年(明治39年)4月1日 勲五等双光旭日章[16]
1906年(明治39年)4月1日 明治三十七八年従軍記章[16]
1915年(大正4年)11月7日 旭日小綬章[17]
1915年(大正4年)11月7日 大正三四年従軍記章[17]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)[18]
1919年(大正8年)10月25日 勲三等瑞宝章[19]
1920年(大正9年)11月1日 旭日中綬章[20]
1920年(大正9年)11月1日 功四級金鵄勲章[20]
1920年(大正9年)11月1日 大正三年乃至九年戦役従軍記章[20]
1926年(大正15年)7月22日 勲二等瑞宝章[21]
1931年(昭和6年)9月8日 勲一等瑞宝章[22][23]
1934年(昭和9年)4月29日 旭日大綬章[24]
1934年(昭和9年)4月29日 功三級金鵄勲章[25]
1940年(昭和15年)8月15日 紀元二千六百年祝典記念章[26]
外国勲章佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1917年(大正6年)2月1日 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 神聖スタニスラス剣附第二等勲章英語版[27]
1917年(大正6年)2月1日 イギリスの旗 イギリス帝国 聖マイケル・聖ジョージ勲章コンパニオン[27]
1917年(大正6年)3月28日 フランス共和国 レジオンドヌール勲章オフィシエー[28]
1918年(大正7年)8月6日 支那共和国 四等文虎勲章中国語版[29]
1920年(大正9年)2月8日 フランス共和国 銀星附クロア・ド・ゲール英語版[30]
1934年(昭和9年)5月9日 満洲国 満州帝国 勲一位景雲章[31]
1937年(昭和12年)12月1日 満洲国 満州帝国 龍光大綬章[32]
1940年(昭和15年)6月25日 イタリア王国の旗 イタリア王国 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章グランクロア[33]
1941年(昭和16年)12月9日 満洲国 満州帝国 大勲位蘭花大綬章[1]
1941年(昭和16年)12月9日 満洲国 満州帝国 建国神廟創建記念章[1]
1944年(昭和19年)5月1日 満洲国 満州帝国 国境事変従軍記章[34]

親族

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関連項目

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脚注

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  1. 1 2 3 『官報』第4482号「叙任及辞令」1941年12月15日。
  2. 『考古の巨星: 末永雅雄と橿原考古学研究所』向谷進、文藝春秋、1994, p16
  3. アンドレ・ヴィオリス著『1932年の大日本帝国』、大橋尚泰訳、草思社、2020年、p.221
  4. 「日本外交年表竝主要文書下巻」(外務省, 341-343頁)。データベース『世界と日本』。
  5. 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、185頁。NDLJP:1276156
  6. 『朝日新聞』1952年3月19日夕刊一面
  7. 『陸軍現役将校列次名簿』(明治33年) 211頁
  8. 『官報』第4824号「叙任及辞令」1902年7月31日。
  9. 『官報』第5587号「叙任及辞令」1902年2月21日。
  10. 『官報』第6401号「叙任及辞令」1904年10月29日。
  11. 『官報』第3378号「叙任及辞令」1923年11月26日。
  12. 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
  13. 『官報』第1225号「叙任及辞令」1931年1月31日。
  14. 『官報』第2307号「叙任及辞令」1934年9月7日。
  15. 『官報』第3216号「叙任及辞令」1937年9月20日。
  16. 1 2 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月11日。
  17. 1 2 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。
  18. 『官報』第1333号・付録「辞令」1917年1月15日。
  19. 『官報』第2169号「叙任及辞令」1919年10月27日。
  20. 1 2 3 『官報』第2610号・付録「叙任及辞令」1921年4月16日。
  21. 『官報』第4176号「叙任及辞令」1926年7月24日。
  22. 『官報』第1410号「叙任及辞令」1931年9月9日。
  23. 中野文庫 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧 (戦前の部)
  24. 中野文庫 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧 (戦前の部)
  25. 中野文庫 旧・金鵄勲章受章者一覧
  26. 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  27. 1 2 『官報』第1350号「叙任及辞令」1917年2月3日。
  28. 『官報』第1396号「叙任及辞令」1917年3月30日。
  29. 『官報』第1804号「叙任及辞令」1918年8月7日。
  30. 『官報』第2254号「叙任及辞令」1920年2月10日。
  31. 『官報』第3037号・付録「辞令二」1937年2月19日。
  32. 『官報』第3395号「叙任及辞令」1938年5月2日。
  33. 『官報』第4042号「叙任及辞令」1940年6月28日。
  34. 佐藤徳外十六名外国勲章記章受領及佩用允許の件 アジア歴史資料センター Ref.A10113504000 

参考文献

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軍職
先代
南次郎
関東軍司令官
第5代:1936年3月6日 - 1939年9月7日
次代
梅津美治郎
先代
川島義之
朝鮮軍司令官
第11代:1934年8月1日 - 1935年12月2日
次代
小磯国昭
先代
永井来
第9師団
第10代:1930年12月22日 - 1932年9月1日
次代
荒蒔義勝
先代
新井亀太郎
支那駐屯軍司令官
第12代:1929年3月16日 - 1930年12月22日
次代
香椎浩平
先代
小畑豊之助
軍馬補充部本部長
第11代:1926年3月2日 - 1929年3月16日
次代
吉岡豊輔
先代
鈴木文次郎
騎兵第3旅団長
第6代:1924年2月4日 - 1925年5月1日
次代
吉田源治郎
先代
長沢郁五郎
騎兵第1連隊
第13代:1923年3月17日 - 同8月6日
次代
福羽真城