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椋木潜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
椋木 潜
時代 江戸時代末期(幕末
生誕 文政11年11月10日1828年12月16日
死没 明治45年(1912年1月31日
別名 八太郎、福輔、小林弥助、南八郎(変名)
墓所 秋葉山墓地(島根県益田市
官位 従七位
主君 亀井茲監
津和野藩
父母 椋木正恭
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椋木 潜(むくのき ひそむ)は、幕末から明治時代の武士津和野藩士)、志士、教育家。

略歴

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津和野藩士の子として生まれる。当初は藩校養老館に学んだが、弘化3年(1846年)脱藩して江戸に上り、清水赤城より儒学・兵学を学ぶ。赤城の子大橋訥庵の思誠塾に入ってその同志となり、文久元年(1861年)大橋や宇都宮藩家老間瀬和三郎の命でたびたび上京し、諸公家に公武合体反対の入説を行う。文久2年(1862年坂下門外の変においては斬奸状の起草者となった。そのため幕吏を逃れて宇都宮をはじめ水戸・陸奥・仙台と各地を流浪、岡金左衛門・南八郎・諸葛亮太郎・小林彌助・椋木潜の変名を用いた。田舎髷へ変装し司直の追跡を逃れた事もあったという。文久3年(1863年福羽美静の仲介を得て帰藩し、以後は藩の兵学教授を務める。維新後は刑法官弾正台に出仕、権判事監察使を歴任。明治9年(1876年)教育界に移り、広島師範学校浜田中学校の教諭を歴任した。明治45年1月、文筆を手にして逝去。享年85。

大隈重信を追慕し墓前に石灯籠を献した事績が伝わる。

没後残された膨大な蔵書は、益田の岡書館を経て太皷谷稲成神社宝物殿(藩城跡)へ収蔵。四書五経から歌集、史学、兵学、軍記、化学と漢籍のみならず舶来洋学も網羅し、教育者と兵学者を兼ねた下地を伺わせる[1]

参考文献

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  • 鳥海靖「椋木潜」『国史大辞典』 13巻、吉川弘文館、1992年。ISBN 4642005137 
  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編「椋木潜」『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 9784062108003 
  • 『津和野教育史談』島根県立津和野中学校々友会、1935年、53-58頁。 
  • 『故椋木潜先生蔵書』(四百拾六部弐千六百四拾八冊)太皷谷稲成神社蔵、蔵書目録表書(略伝)

脚注

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  1. ^ 宝物殿|宗教法人 太皷谷稲成神社”. 太皷谷稲成神社. 2024年7月30日閲覧。