森忠洪
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| 時代 | 江戸時代中期 |
|---|---|
| 生誕 |
享保16年10月23日(1731年11月22日)[1] または享保13年(1728年)[2] |
| 死没 | 安永5年6月2日(1776年7月17日) |
| 改名 | 五郎作(幼名)、忠洪、秋香亭傘路(法号) |
| 戒名 | 大盛院殿以徳善隣大居士 |
| 墓所 | 東京都港区東麻布の瑠璃光寺 |
| 官位 | 従五位下和泉守 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家重、家治 |
| 藩 | 播磨赤穂藩主 |
| 氏族 | 森氏 |
| 父母 |
森正典、森氏または各務利直、側室久昌院 森政房 |
| 妻 | 井上正之娘、西宮氏 |
| 子 | 忠興、忠賛、政子、森政宣室 |
略歴
[編集]享保16年(1731年)10月23日(または享保13年(1728年))、藩主森家の家老・森正典の子として生まれる(各務利直の七男ともいわれる)。
延享3年(1746年)12月8日に第4代藩主・森政房が死去したため、その養子となる。延享4年(1747年)2月6日に家督を継ぎ、12月15日に従五位下・和泉守に叙位・任官する。生来から学問好きだったため、藩財政難打開を目指して文人を数多く登用し、その文人による学問的な藩政改革を行なった。主に塩田開発を行なったが、この改革は一時的に成功し、後に「大盛院(忠洪の戒名)時代」と称されている。
明和6年(1769年)7月23日、長男・忠興に家督を譲って隠居し、以後は秋香亭傘路と号して俳諧の道を歩み、「秋香亭句集」を残している。安永5年(1776年)6月2日に死去した。享年46(または49)。
系譜
[編集]- 父:森家家臣森正典(1681-1739)または森家家臣各務利直[3]
- 母:森氏または側室久昌院
- 養父:森政房(1710-1747)
- 正室:常陸国笠間藩主井上正之の娘
- 長男:森忠興(1752-1784)
- 側室:西宮氏
- 生母不明の子女