桐竹紋十郎

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桐竹 紋十郎(きりたけ もんじゅうろう)は、人形浄瑠璃の人形遣い。2代を数える。

初代[編集]

弘化2年(1845年2月 - 1910年8月15日)は、摂津生まれ。本名・小林福太郎。桐竹門十郎の子。13歳で三代目吉田辰造に師事する。初名は吉田辰三郎。信州や江戸で修行し、1876年大阪文楽座に戻り初代桐竹亀松、ついで門十郎を名乗る。1877年祖父の名乗った桐竹紋十郎の名跡を復活。明治期を代表する女形遣い。墓所は谷中宗善寺。

実子に歌舞伎の六代目嵐德三郎、孫に大剣客スターの嵐寛寿郎がいる。

二代目[編集]

1900年11月20日 - 1970年8月21日)は、大阪府堺市生まれ。本名・磯川佐吉。子供のころ知人に誘われ千日前常磐座に見に行ったのが切っ掛けで興味を持つようになる。1909年9月に四代目吉田文五郎に弟子入りするも背丈が小さいと断られる(当時多くの小屋は手すりが三尺あり、人形操るのに苦労した)も頭取から「子供心でやろと気があるのは面白いと思うが、ま、一ぺんなるかならんか縁もんやから、一つおこしたらどだす」ということで弟子入りが許される。初名は吉田小文。同年11月堀江座で初舞台。その後一度離れ、春日座にて壮士芝居県妻吉の所に入る。春日座が火事になる。師匠の元に戻る。1915年12月に初代中村鴈治郎の仲介で文楽座に移る。その後七代目竹本春太夫の仲介で近松座の連中らで京都京極の竹豊座に入り初代吉田文昇と改名、1918年に東京から北海道まで巡業この際に二代目吉田簑助と改名、1927年、二代目桐竹紋十郎を襲名。戦後、組合派(のち三和会)を結成し会長となる、「文楽因会」の保守派と対立。1963年の合同まで幹部として活動。地方や小劇場、海外のカナダアメリカヨーロッパまで公演に参加。1965年人間国宝1969年文化功労者となる。1970年すい臓がんで死去。墓所は京都頂妙寺。

女形から立役まで幅広くこなした。『文楽の人形と三味線』(鶴沢清二郎共著 文楽研究会 1944)がある。

実子に舞踊家藤間紋寿郎

参考文献[編集]

  • 上方芸人ばなし(山川静夫
  • 私の履歴書 第30集 日本経済新聞社 1967
  • 私の履歴書 文化人 11 日本経済新聞社 1984.3
  • 文楽・桐竹紋十郎 安藤鶴夫中西敬二郎年譜 求竜堂 1967